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「……あれま。下平さん」目を見開いた三津子。「完っ全、女の顔してんわ。……くっついた?」
翌、月曜日。出社早々に見抜かれてしまった聡美である。
デスク下にバッグを置いて靴を履き替える聡美に、「良かった? ……てのは愚問だね。顔見りゃ分かるもんねえ」ひゅーひゅー、と口笛を吹き、「あー。いいなあー。めくるめく恋人たちの夜。……なんにせよ」
――幸せそうで、良かった。
微笑みかける三津子に聡美は頭を下げる。「すみませんでした。いろいろ心配かけちゃって……」
「いいのよ。こっちは楽しませて貰ってるから」率直な三津子の発言。笑顔で応じられる自分には余裕がある。幸せに浸りながらデスクにカップを置き、パソコンの電源を入れると、三津子が、
「お子さんたちはどんな感じ? 懐いてる?」
「ええ。すっかり。うち、パパに会うの年に一回程度なので……やはり。母親だけじゃ賄えない部分があるんですよね」すとんと椅子に座り、「高い高いとか、肩車とか……あたしには出来ないですもん」
「確かにねえ」と頷く三津子。「あたしもさぁ。シングルの予定だったんだけど、やっぱ一緒になってみると楽な部分が多いよ。怒るほうと宥めるほう、片親だと両方いっぺんにやんなきゃじゃん。その辺、大変だよねえ」
「ほんとに」コーヒーを飲む聡美。「片親で子育てしてると生きてくだけで精いっぱいで。つい半年前のことであっても全然覚えてなかったりします。で娘に怒られると……」
「ははは」あけっぴろげた感じで笑う三津子が、「それは片親かんけーなしに、覚えてらんないってだけだね。都合悪いことなんかすーぐ忘れちまう。うちなんか二人も居るからどっちがなに始めたかとかもうめっちゃくちゃ。気がついたら歩いてて気がついたら喋ってる、そんなノリ」
「……分かります」パスワードを打ち込む聡美は時間を意識する。始業時間まで残り五分。そこに意識を働かせるのは三津子も同じなようで、
「……んで。どうすんの」
「えっ」
「……子どもがいるとのんびり恋愛なんかしてらんないよ」片目をつぶってみせる三津子。「双方の子どもに関わる問題なんだからさぁ、恋人気分味わうのも大事だけど……例えば結婚してどこに住むかとか、保育園を転園するかとか、決めなきゃなんないんだからさぁ」
――それはその通りで。
百瀬と今後どのように恋愛を展開させていくべきなのか。美凪や葉月のことも含めて考えなくてはならない……。
「まあ恋愛って片方だけで動くもんじゃないからさ」考える余地を与えたのちに三津子。「肝心のはるちんがどう考えてるか……そこんとこが問題だねえ」
「へくち」
くしゅん、とくしゃみをする。……変だな。風邪を引いているわけでも、花粉症持ちでもないのに。
オフィスにてタイピングをしていた百瀬は手を止めるとティッシュに手を伸ばす。ぶーん! 勢いよく鼻をかむさまにどっと社員たちが笑う。……百瀬さんどしたんすか。風邪っすか?
「やー違うと思うんだけど」
「幸せボケってやつっすか」
「いやまあ……」そこは否定しない。「帰ったらしっかり風呂浸かんないと。この仕事はからだが資本だからね」言いながら百瀬は思う。――からだが資本でない仕事など皆無だと。
そこへ、社員の片桐(かたぎり)がやってくる。「……百瀬さん。昨日の、笹原(ささはら)さんとの面談の件なんですけど……」
片桐は臨床心理士の資格を持っており、その能力を生かして積極的に若年無業者との面談をして貰っている。ミーティングまでまだすこし時間がある。ディスプレイの時刻を目視した百瀬は、
「分かった。会議室で話そう」
百瀬が十年前に立ち上げた会社、『若者みらいネット』は、主に若年無業者の就業支援を行う会社である。ここに来るのは、引きこもりの子どもに悩む親――特に母親が七割。親子で来るのが二割、当人がひとりで来るケースは残りの一割。彼らから話を聞き出し。情報登録し、チーム体制で若年無業者が就職出来るよう相談に当たる。この段階を百瀬たちはコンサルティングと呼んでいる。なお、百瀬の会社では悩める親のサポートも行っている。ある日突然息子が引きこもりになり、誰にも相談出来ずに困り果てる、そんな事例が多いからだ。孤立無援、働かない我が子を前に社会から取り残される両親。経済的にも困窮する家庭も珍しくない。
チームは五人体制。パート社員も含む。バックグラウンド性別など敢えてばらばらに分けている。そのほうがどんな相談者が来たとしてもフレキシブルに対応出来ると見越してのことである。
コンサルティングを進めるとワーキングトレーニングに入る。その段階に入った若者をワートレ生(せい)と呼んでいる。職種は様々。近隣の農家の手伝いから商店街の清掃、他には事務など。百瀬たちの活動を支援する企業に短時間短期間勤務し、様子を見る。勿論その間チームはサポートをする。なかには家から全く出ないまま青春時代を過ごしたという若者もおり、朝早く起きて仕事に行く……それだけで大仕事なのだ。精神的支えが必須なのは言うまでもない。百瀬たちはワートレ生から彼らの仕事帰りなどに話を聞き出し、彼らの不安を取り除く。雇う側からヒヤリングをし、双方の仲立ちを行うのも百瀬たちの重要な職務だ。
百瀬はこれまで二千人以上の若年無業者を見てきているが、世間様のイメージする『親の脛をかじる甘ったれたニート』は一割にも満たない。みんな、危機感を感じている。仕事を出来ない自分に対し。辞めてしまった自分に対し。書類選考を通過しても、前職での壁を思いだし、面接となると足がすくんでしまいなにも出来ない……というワートレ生も珍しくない。
若者の三分の一が就職して三年以内に退職する時代だ。企業にとっても若者の離職は深刻な問題であり、よって百瀬の活動をサポートする企業も多い。なかでも、皆が知るソフトを開発するM社から、パソコンのスキルをアップする就業支援を提案頂いた……そのメリットは大きかった。
百瀬が思うのは、若年無業者を放置しておくのは社会として不利益であるということだ。ひとり一生二億円を稼ぐと言われている。その貴重なインカムを失うことは社会全体として大きな痛手だ。若者が働かねば社会として支える必要が出てくるのだが、もし彼らが働きさえすれば、タックスペイヤーへと変化する。この超高齢化社会、超少子化の進む時代において、税金を払い社会を支える人間はひとりでも多いほうがいい。また、若年無業者自身にとっても、仕事を続けることは大事だ。職業アイデンティティを甘く見てはならない。……仕事に熱心に打ち込むことを通じて、人間は自分の存在価値に気づき、社会での必要性を見出していく……犯罪者に無業者が多いというのはそこも関係している。
特に年配の男性は「ニートなんて放っておけ」という思い込みに囚われている人間も多く……百瀬たちはそうした既成概念を取り払うため、日々、営業活動を行っている。近くに大学が二つあるので積極的に講演活動を行ったり。また、地元商店街に張り紙をさせて貰ったり、商店街の活動に自発的に参加している。なお、地元での認知度を高めることの重要性を訴えたのは中途入社した岩下(いわした)である。
ワートレ生がトレーニングを終え無事就職したらそれで百瀬たちの活動は終わり……ではなく。
引き続き雇った企業からヒヤリングを行い。また、若者からその後の状況を聞き出し、不安を取り除く、サポート活動も行っている。
若者が躓くのは人間関係、そしてスキルアンマッチ、主にこの二つだ。あくまで百瀬の見た限りでは人間関係のトラブルで退職する人間は全体の七割を占める。上司が合わない、同僚とうまくやっていけない、お昼をひとりで食べている……。裏を返せばスキル的には問題がないという意味であり、つまり、その後起こりうる人間関係さえうまく回せていけば、仕事の継続が可能だという事実が読み取れる。
スキルの問題に関しては事前に就業トレーニングを行い。就職後であっても時間に余裕があり、本人の意志が固ければ参加して貰っている。人間関係については引き続き聞き出したうえで対処法を一緒に検討する。
さて百瀬たちの活動は基本、若年無業者が相談にやってくるところからスタートする。昨日、笹原(ささはら)尚樹(なおき)という、若者から話を聞き出したという片桐から話を聞いてみると……。
――やはり、前職でのパワハラが堪えているようで……。
と、打ち明ける。「笹原さんは、職に就きたいという意志はあるんですが……いざ面接となると胃が痛くなってしまって、面接会場にも行けないらしく。昨日の面談も事前に胃薬を飲んできたとのことでした。
親に迷惑をかけているという自覚はあるようで。思い悩む様子が見られます……」――写真だけで見るとなかなかの美男子だ。
パソコンでクライエントの笹原の資料をチェックしながら百瀬は片桐に問いかける。「それで。やっぱり、片桐さんのグループで担当するつもり?」言いながら百瀬は片桐のチームメンバーの顔を順に思い返す。……定年後にこちらに就職した田中(たなか)。やや頭の硬いところは見られるが頼もしいメンバーだ。ニートなんか放っておけ。若年無業者に対しここで働く前はそうした偏見を持っていたようであるが……実際に悩む若者との接触を重ねるにつれ、田中のなかで思い込みが薄れていくようであった。定年まできっちり勤め上げた田中の言葉には重みがあり。強面の田中に委縮するワートレ生も見られるが、最終的には父のように慕うワートレ生がほとんどだ。田中自身積極的にOB会に出席している。
就職させるのも大切なのだが問題はその後だ。ひとり、慣れない環境に置いてきぼりにされ、孤独と不安を覚えるワートレ生も少なくない。
OB会は単なる飲み会であるが。同じ時期にワートレをした人間は言わば同期であり。彼らは結束力が強い。みんなで集まり語らうことを素直に楽しむ卒業生も多いし、飲み会の場で若者みらいネットのスタッフに、相談するまでもないけれどちょっぴり不安に思っていることなどを打ち明ける人間も見られる。
片桐のグループメンバーは、田中以外だと、主婦である三橋(みつはし)、柔和な独身男性の織部(おりべ)、飲み好きの岸本(きしもと)が居る……。会話では常に突っ込みに回る親しみやすい岸本になら笹原はこころを開くかもしれない……まだ語ったことのない笹原に百瀬は祈りを捧げる。……どうか。
救われますように、と。
パソコンを操作しながら「パワハラの内容まで聞けた?」と百瀬。すると片桐は「大体は」と答える。……毎日、鬼上司に怒鳴られて……『これだからゆとりは』とか、事あるごとにみんなの前で叱られたそうです……。
「そっか。辛いね」と百瀬。彼自身、パワハラは受けたことがないが、過度の仕事を与えられ心身を病んだ過去がある。そうした話には素直に同調する。「……笹原さん的にはどんな仕事を希望しているのかなあ?」
「迷っている様子です」と片桐。「前職が、パソコンを使っていた仕事なだけに、それしかないと思い込んでいるようで……でもまた同じような目に遭わないか、抵抗も感じているようで」――よくある話だ。
だが百瀬はそれを、『よくある話』の一言で片づけたくはない。
悩みは、ひとそれぞれ。そしてみんな平等に――
生きていく権利がある。
尊重される権利もある。その権利は汚されてはならない。
パソコンを使う職であればなにもPGではなく、例えば事務作業なども可能だ。事務は、パソコンが出来ると重宝される。そのことを示唆したうえで、次回面談になにをすべきか。リーダーである片桐と話し合ったうえで『異業種への可能性も提示する』ことで話はまとまった。
「お先に失礼します」フロアの皆に聞こえるように挨拶したうえで百瀬は退社する。……葉月が生まれる前は、トレーニングから帰ってきたワートレ生と語らい、ゲームで盛り上がることもあった百瀬だが、子どもが生まれるとそうも言ってられない。
お疲れ様ですー。
「社長、お幸せにぃー」
織部がそう言うと皆が一斉に笑った。……みんな。若者の様子を見る職業に就いているだけあって一個人の反応には敏感だ。岸本など「社長女出来ました?」週明け早々に看破したくらいである。
電車に乗ると百瀬はタブレットを立ち上げ、自身の書き上げた文章を推敲する。……一般人に、若年無業者に対する認識を高めてもらうこと。思い込みを払拭すること。それも百瀬の使命であるため、過去、百瀬は三度本を出版している。ゲラの締め切りが月末に迫っており、百瀬としては一分一秒も惜しみたくない……そういう状況である。
電車が目的地に辿り着くと百瀬は階段を駆け下り、徒歩圏内の保育園に預けている娘・葉月のところへと走る。
「あっ、パパ。パパーっ」
……このときほど満たされる瞬間を百瀬は知らない。……いや。
(あったか……)
あの濃密なセックスを思い返すたびに百瀬の本能は疼く。積年の想いを確かめ合えた、その時間が。
だがいまは父親の役目を果たさねばならない。百瀬は膝をついて葉月を抱きしめると、先生から連絡帳を受け取る。……今日は運動会のリハーサルをしました。
「そっか。頑張ったねはーちゃん」
「うん!」髪を撫でられ笑うその顔は自分とよく似ている。離婚して。
こんなに可愛い娘を捨て去ったあの女の面影が過ぎらないか――少々の不安を抱いていた百瀬であったが。
杞憂であった。
娘は素直で可愛く。想像以上に愛らしくたくましく成長している。その過程を眩しいものを見るかのように百瀬は見守る。……帰宅するとさあ、戦いの始まりだ。
百瀬自身、父が仕事で多忙であるため、幼い頃から家事全般を任されてきた。……が、楽だと思ったことなんか一度もない。娘がプリキュアを見ている隙にちゃちゃっと味噌汁、ほうれん草のおひたし、生姜焼きの三品を作り上げる。
「はーちゃん。ご飯だよー」
番組に見入って手が止まることもしばし。百瀬は苦笑いをしてしまう。しかしながら彼も鍵っ子であったため、その気持ちはよく分かる。テレビが癒してくれたあの孤独。
百瀬は、どんなに忙しくとも娘が食べ終わるまで付き添うのをルールとしている。……自分がしたあんな思いを娘にはさせたくない。頭のなかで推敲をしていると娘が「ごちそうさまでした」と手を合わせる。
「……お粗末さまでした」百瀬は腰を浮かせ、「そしたらパパはお台所とお洗濯物をしてくるから。そしたらお風呂だよ。分かったね」
「はぁい。お菓子はー」
「一個だけね」
「はーい」引き出しからチョコのお菓子をひとつ取り出し、意気揚々とテレビの前のソファーに向かう娘。……を見守りつつ百瀬は手際よく片づけていく。使った食器を。自分のこころの片隅に横たわる残滓を。皿を洗っていると自分のなかの澱んだものがすべて、流されていく気がするのだ。
洗濯物はベランダに干しているが、寒くなったら渇きが悪いので部屋干しにしている。ベランダで、葉月が番組に合わせて歌い始めるのを聴きながら百瀬は作業をする。
お風呂。彼女が自分で自分のからだを洗えるようになった頃から負担が減った……といえど。絡まりやすい髪を洗ってやるのは百瀬の仕事だ。洗い残しのないよう、丁寧にすすいでいく。パパが洗いやすいようにと、思い切り頭を後ろに下げる娘の健気さよ。笑みがこぼれるのを感じながら百瀬は娘を清潔にしていく。
風呂上がりに化粧水を叩き込んでいると「はーちゃんもするー」
鏡を前にぺったぺた肌に叩き込む親子が二人。目を合わせ微笑みあうその時間の幸福さよ。これを知らずに捨てたあの女はどうしているだろう。……さて。
お絵描きをする娘の隣に座り、百瀬は、「パパこれからお仕事ね」
「うん。分かった」……
瞬間的に百瀬はスイッチを入れる。……読者に分かりにくいところがないのか。ちゃんと『伝わる』ように文章が書けているのか。……入念に、何度も何度も推敲を繰り返す。
あらかた終わったところで父が帰宅した。「じぃじ。じぃじ。あそんでー」
スーツ姿の百瀬の父は、「お風呂入ってご飯食べてからな」
「えー」むくれる孫には結局弱く。一度、お店屋さんごっこをしてから風呂場に向かった。
……さて。
携帯を見た。新着メッセージが一件。
『お仕事お疲れ様。涼しくなってきたからあまり無理しないでね』
その文章を見たときにある欲望が百瀬の胸のうちを走る。――抱きたい。
抱きしめてキスをしたい……。
離婚してからというものの、娘の世話、そして仕事をすることで手いっぱいで、自分を省みる余裕すらなかった。必死だった。
思い切って百瀬は電話をしてみた。「……もしもし」相手はすぐ電話に出た。確か運動を終えた頃のはずだ。「百瀬さん。元気してる?」
朝、顔を合わせたばっかりなのに。
可笑しくなって百瀬が笑うと「百瀬さん?」と呼びかけられる。「あの……、あたし、笑っちゃうような、変なこと言いました?」
「いいや全然」百瀬は目頭の涙を拭い、「それで今度の土曜日だけど。うちに、泊りに来る……?」
思いがけない提案に彼女の驚く気配。だってさ、と百瀬は言葉を紡ぎ、「うちの親父に挨拶に来るのに。また帰って日曜来るって大変じゃない? だったら泊りに来るほうが楽だと思うんだけど……」言いながら百瀬は思う。
――抱きたい、と……。
時間を気にせず愛し合えたならどんなに幸せだろう。百瀬の未来予想図はあくまで幸せなものに限る。もう。
さとちゃんなしの人生など考えられない……。
「じゃあ、……ご迷惑じゃなければ。あとで美凪にも聞いてみるわね。……と」
はーちゃん。はーちゃんとしゃべりたーい!
と子どもの声。美凪だ。「ごめん百瀬さん。美凪がはーちゃんと話したがってるから、替わって貰っていい?」
「勿論さ」子どもたちが打ち解けるのに時間はかからない。ましてや二人は年も近く、性別も同じ。実の姉妹のように仲良く育ってくれるだろうと、百瀬は確信している。
電話を切ると百瀬はひとつのことを決めた。……
再びノートパソコンを開き、手早く仕事を終えると一旦百瀬は娘を寝かせ。日付が変わる頃まで仕事を続けた。
眠る前に必ず彼女のことを思いだす。……大好きなさとちゃん。あんなにも感じて、乱れて……やさしくって聖女のようで。
こころのうちを流れ出すきらめく星のような流れを感じつつ、百瀬は、一日の終わりに訪れるやすらぎへと身を任せた。
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