花々が咲き誇る庭園を進む。
奥に新種の作物を育てている土地がある。
シャンフレックよりも背丈の高い花々が咲き誇る。
色とりどりの道を進み、まっすぐに奥地を目指していた。
だが、シャンフレックはふと足を止める。
「……?」
足跡。
サイズ的には男性のものだろうか。
庭師は女性を雇っているので、庭師ではない。
足跡は少し道を逸れて、花畑の奥へ進んでいた。
シャンフレックが目指す場所とは異なる方向だが、彼女は足跡を追ってみることにした。迂闊に追うのは危険だが、護身術も身につけている。
立ち並ぶ花をかき分けて、彼女は先へ。
そして花が開けて円形になった広場で──
「!?」
誰かが寝ていた。
すやすやと寝息を立てて、気持ちよさそうに眠っている。
シャンフレックは警戒しつつ「彼」に近寄った。
驚くほど容姿の整った少年だった。
蠱惑的な艶を持つ黒髪、細見ながらも引き締まった体。
年齢はおそらくシャンフレックと同じくらいだろうか。
彼は薄手のシャツ一枚でごろんと寝ころんでいる。
花びらが数枚、髪の上に乗っていた。
シャンフレックは座り込んで彼の顔を覗き込む。
「あの」
「……ん」
思わず声をかけてしまった。
少年がうっすらと目を開く。
透き通った青い瞳を見た瞬間、シャンフレックの心臓が跳ねる。
今まで見た中で、一番整った顔立ちだ。
「こ、ここで何をしているの?」
動揺しながらも、彼に素性を尋ねるシャンフレック。
彼はぼんやりとしていたが、やがてハッとして周囲を見渡す。
「……ああ、そういえば。ええと……よし、これでいこう。
ここはどこだ? きみは誰だ?」
心地よい声色で彼は尋ねた。
どうやら混乱しているようだ。
「ええと、それはこちらのセリフなんだけど。ここはフェアシュヴィンデ公爵の城よ。あなた、公爵家に仕える人じゃないわよね?」
家臣の顔と名前はすべて把握している。
こんな美男子がいたら忘れるわけがない。
「僕は……ええと。僕は……」
頭を抱えて少年は戸惑う。
それなりの沈黙の後、彼は口を開いた。
「──アルージエ。これが僕の名だ」
「……聞き覚えのない名前ね。外国の方?」
アルージエは首を傾げた。
先程から、彼の態度はどこか違和感がある。
「自分がどこから来たのかわからない。そして……この土地は、ヘアシュ?」
「フェアシュヴィンデ公爵領」
「そう、フェアシュヴィンデという名にも聞き覚えがない。自分が何者であり、どこから来たのか。そしてなぜここにいたのか。名前以外のすべてが思い出せないようだ」
記憶喪失、というやつだろうか。
それにしては話が出来すぎている。
そして冷静すぎる。
記憶喪失を装った密偵だと考えるのが自然だが……はたして密偵がこんなところで寝ているだろうか?
もしも暗殺者なら、とうにシャンフレックを襲っているはずだ。
彼女は逡巡する。
このアルージエという少年をどうするべきか。
「自分の身分を証明できる物はあるかしら?」
アルージエは自分の服をぽんぽんと叩く。
しかし、彼は何も持っていないようで。
「財布すらない。困ったな」
「追い剥ぎにでも遭ったの?」
記憶喪失に現実味を持たせるとすれば、盗賊などから追い剥ぎに遭い、何らかの過程で記憶を失ってしまったことになるだろう。
だとしても、公爵領の花畑で寝ていた意味がわからないが。
「でも、あなたはたぶん平民じゃないわね」
「それは……どうしてわかるんだ?」
シャンフレックはアルージエに近づく。
ふわりと甘い香りがアルージエから漂った。
「手が綺麗だもの。普段から肉体労働をしている階級ではないわね。貴族でないにせよ、少なくとも中流階級以上なのは間違いないわ」
「なるほど。そういう見分け方があるのか……」
アルージエは納得したように頷いた。
それからシャンフレックにさらに近づき、彼女の手を取った。
「ひゃ!?」
いきなり手を取られて彼女は変な声を上げてしまう。
「たしかに、きみの手も綺麗だ。とても美しい顔立ちをしているし、きっと素敵な淑女なのだろう。そういえば、きみの名前を聞いていなかったな」
「わ、私はシャンフレック・フェアシュヴィンデ。公爵令嬢よ」
「シャンフレックか。可憐な名前だ。僕を起こしてくれてありがとう」
目をしっかりと見つめて、微笑みながら感謝を伝えるアルージエ。
今まで経験したことのない気持ちがシャンフレックを襲う。
「それよりも手を離してくれる? 相手の許可もなく体に触れるのは、貴族のマナーではよろしくないのよ」
「……そうだったのか。それは失礼した。以後気をつけるよ」
「まあ、記憶がないみたいだから大目に見るけど。とりあえず……そうね。ついてきて」
迷いの末、シャンフレックはアルージエの言葉を信じてみることにした。
とりあえず悪人ではなさそうだ。
彼にどのような目論見があるにせよ、ここに放置しておくわけにはいかない。
アルージエは立ち上がり、シャンフレックの後を追う。
そしてシャンフレックを追い越し、彼は通り道の花を分けた。
記憶喪失ではあるが、細やかな気遣いはできるらしい。
「ありがとう」
なんだか狂う調子を抑え、シャンフレックは平然と振る舞うように努めるのだった。
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