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「もしもし」
少し緊張気味な空の声が携帯の向こうから聞こえた。
「ごめん・・・あの・・・」
自分でも、なぜ空に電話を入れたんだろうと思う。
頼ってはいけないと思っているのに・・・
「礼?」
優しい声で名前を呼ばれ、
「ごめんなさい」
溢れてくる涙を必死にこらえる。
私は何をしているんだろう。
今まで、ずっと一人で生きてきたのに。
どんなことがあっても、誰にも頼ることなく、一人で頑張ってきたのに。
私はこんなに弱い人間ではないのに。
「どうした?何があった?」
電話の向こうから聞こえる声に焦りはあるものの、普段より優しく問いかけてくれる。
「ごめんね、電話なんかして」
それでも、迷惑をかけてしまっているだろうという思いは消えない。
最近、毎日のように空がうちの会社にやってくる。
朝だったり夕方だったり時間はまちまちだけれど、専務秘書室の私のデスク前に置かれたソファーでパソコンを広げ仕事をする。
それに対して、きっと言いたいことはあるはずの雪丸も遥も見て見ぬふり。
だから私も何も言わない。
ただ、こんな行動に出るのは私を追いかけてのことと理解している。
うぬぼれに聞こえると嫌だけれど、今空は私を好きでいてくれていると。
だから、私は空に甘えてしまったんだ。
「何があったの?まずそれを聞かせて」
少しだけ大きくなった声。
「うん、実は、」
***
ことの発端は今日の夕方かかってきた学校からの電話。
「大地君が友達と喧嘩をしてしまいまして」
「はあ」
申し訳なさそうに言う担任の先生に、私も相槌を打つことしかできなかった。
きっかけはからかわれた友達をかばっていじめっ子に向かって行ったことらしい。
原因はいじめっ子にある訳で、大地が悪いわけではない。
でも、もみ合う中で手も足も出てしまった。
先生から見れば、大地もいじめっ子も同じ程度の打撲にしか見えなかったそうだが、
「それで、怪我って言うのは?」
「かすり傷と打撲程度に見えます。しかし」
困ったなと言葉を止めた先生。
相手の子は先生の前で、ここが痛いあそこが痛いと大騒ぎして泣き出したそうだ。
「もともと大地君が悪いわけではありませんし、手が出たのはお互い様なので・・・大地君だけが責められるのはおかしいと思うのですが・・・」
それでも、大地に叩かれけられて体が痛いと訴えた子がいる以上、謝るのは大地の方になる。
「僕からも事情を説明しておきますし、子供同士のけんかですので謝罪って言うのはおかしいと思うのですが、お母さんの方から一度連絡を入れていただけますか?」
決して一方的に謝る必要はありませんと強調しながら、先生は相手の連絡先を教えてくれた。
私はすぐに電話を入れ、相手の子のお母さんに謝ったが・・・
「謝罪があったことは主人に伝えます。今はまだ大地君に暴力を振るわれたことへのショックと殴られた痛みで横になっていますので」
いかにも大地が悪いように言われ、さすがに傷ついた。
いじめっ子はあなたの子でしょうと言いたいのに、言えなかった。
本当に、私はダメな母親かもしれない。
***
「ねえ、礼。大丈夫?」
「大丈夫、じゃない」
悪いのは大地じゃないのに。
大地だって泣きたい気持ちかもしれないのに。
相手のお母さんの剣幕に負けて、私は母として何も言えなかった。
「それで、大地は?」
「それが・・・いないの」
「はあ?」
呆れたような空の声。
急いで会社から帰ってきたときには大地はマンションにいた。
元気なくうつむきながら、部屋の中でサッカーボールを蹴っていた。
きっと大地も傷ついていて、持って行き場のない思いをボールにぶつけているんだろうと思ったけれど、さすがに室内のサッカーは危ないしやかましい。
「ねえ、イライラするのもわかるけれど、ボールを家の中で蹴ると危ないでしょう」
できるだけ声を落として優しく言ったつもり。
それに対して大地は、
「俺の気持ちなんかわからないくせに」
小さな声で吐き捨てるように言った。
それからは口げんかのようになってしまい、口論はエスカレートしていき、
「お母さんなんて大嫌いだ」
そう叫んで、大地は家を飛び出した。
もちろん、私も辺りを探した。
公園も見たし、空の部屋の前にも行った。
でも大地は見つからない。
二時間以上外を見て回り、私は空に電話を入れた。
もしかしたら大地の居場所に心当たりがあるのかもしれないと、かすかな期待を抱いていた。
***
「今何時かわかってる?」
空の声が冷たく聞こえる。
わかってる。
「九時」
小学生の出歩く時間でないのはわかっている。
でも、私だって必死に探した。
「警察には?」
「まだ」
すぐに見つかるんじゃないかと思って連絡できなかった。
今の私の態度はふてくされた時の大地にそっくり。それは自分でもわかっている。でも、心も体も疲れ果ててしまった。
子育てがこんなにしんどいとは、
「わかった、俺も帰るから」
「え、でも」
今日は社長に呼ばれて実家に帰るんだって言っていた。
きっと何か話があるんだろうし、最近の空の行動を考えれば私とのことを注意されるのかなって思っていたのに。
「いい、礼はそこにいて。動かないで。わかった?」
「でも」
電話をしたのは自分なのに、きっと心のどこかで空が駆けつけてくれるのを望んでいたのに。
それでも、空の負担になるようなことをしたくないと思っている自分がいる。
私は一体何がしたいんだ。
「れい、礼」
ん?
「ごめん、何?」
少しぼーっとしていた。
「大丈夫、大地は見つけるから」
「うん、ありがとう」
こんな時に呼び出してしまう空に申し訳ないとは思う。
でも、今は他に頼る人がいない。
私は切れてしまった携帯を握りながら、ダメだ泣かないぞと唇をかみしめた。
***
「え、あ、あの・・・」
20分後。
空は駆けつけてくれた。
すれ違いになるといけないから外に出るんじゃないと言われ、大地の友達の家に電話をしながらマンションで待っていた私は、入ってきた空を見て言葉を失った。
「すまないね、驚かせて」
「いえ、」
確かに驚いた。
まさか空と一緒に社長が現れるとは思っていなかったし、自分のマンションに社長を招き入れる日が来るなんて・・・
「礼、口が開いているよ」
面白そうに言っている空だけど、そりゃあ開くでしょう。
社長だよ、それがいきなり、普段着で現れたんだから。
「僕のことは気にしないでくれ。空の奴が飲んでしまったから送ってきただけだし、大地君のことも気になったしね」
「それは、すみません」
「車を呼ぼうかって思ったけれど、そのほうが時間がかかるから送ってもらったんだ」
「そう」
確かにその方が早かったんだろうけれど。
「怒ってる?」
至近距離まで近づいて顔を覗き込まれる。
「そんなこと」
あるよなんて言えるわけないじゃない。
まずいな、どんどん空のペースに乗せられている気がする。
まだ付き合う決心もできていないのに、社長に知られたくはなかった。
「じゃあ、俺は近くを見てくるから」
「私も」
「いいよ、礼はここにいて。もしかして大地が帰ってくるかもしれないでしょう?」
「う、うん」
それからすぐ、空はマンションを飛び出していった。
***
「あの、よかったらコーヒーでも」
空が出ていき、社長と2人になった室内。
さすがに会話も続かない。
「気を使わないでくれ。すぐに失礼するから」
「はあ」
言いながらも、社長はソファーから立ち上がる様子がない。
「何もありませんけれど、コーヒーくらいは入れます」
「そうか、ありがとう」
仕事であれば社長にコーヒーを入れるのは日常茶飯事。
昔コーヒーショップでバイトをしていた私はそこそこ美味しいコーヒーを入れる自信があるし、遥も社長も美味しいと言ってくれる。
でも、自分のマンションで空のお父様として現れた社長に入れるコーヒーは緊張してしまう。
「息子さんって、小3だっけ?」
「ええ。9歳です」
「自我が出て、急に生意気になるころだね」
「はい」
コーヒーを入れて戻ると、社長は部屋に飾った大地の写真を眺めていた。
「小さい頃はただかわいくて自分の分身のような気がしていたのに、突然自己主張し始めて一人前に反抗してまるで一人で大きくなったような顔をするんだよな」
「そう、ですね」
大地はもう少しかわいげがあるぞと言い返しそうになって、やめた。
きっと、社長は空のことを思い出して言っているんだろう。
あの空のことだから、小さい頃はやんちゃだったはず。社長のぼやきも想像できる。
「一人でよく頑張ったな」
えっ。
どうしてそんなこと・・・
私は再びこぼれそうになった涙を必死にこらえた。
***
「えらいと思うよ。まだ若いのに、一人で働いて子供を育てて」
「やめてください。みんなやっていることです」
私は何も特別なことはしていない。
結婚できない相手との間にできた子を産むと決心したのは私自身。
「このまま平石の家にいてもいいのよ」と言ってもらったのに、一人で育てると決めたのも私。
それに、大地との暮らしは幸せだった。
仕事も育児も忙しくてゆっくりと大地に向き合ってやれなかったのかもしれないけれど、日々成長する大地を見るのがうれしかったし、仕事も楽しかった。
「川田さんはいいお母さんだな」
「そんなことありません」
いいお母さんはもっと子供を守ってやれる人。
私は・・・
「空はわがままな奴だから」
「えっ」
突然話の矛先が変わり驚いて顔を上げた。
まっすぐに私を見ている社長。
普段のおちゃらけた笑顔も仕事の時に見せる厳しい表情もそこにはない。
「言い出したら聞かないだろ?」
困った奴だと、照れ笑いを浮かべている。
「社長に似ています」
失礼を承知で口にした。
信念を曲げない強情さも、いつのまにか周りを巻き込んでしまう才能も社長譲りだと思う。
「やっぱり似てるか?」
「ええ」
本当に親子だと思う。
「まあ、子供の性格は環境だってことだな」
ボソリとささやかれた言葉に、私は返事ができない。
それは、空の話であると同時に大地の話でもあるから。
社長の言葉にそんな含みを感じてしまった。
***
「川田さん」
「はい」
「私は空の父親のつもりだ。あいつが何をしでかしても、親として責任をとるつもりでいる。父親と呼ばせずに育ててしまったことに後悔がないと言えば嘘になるが、私も妻も信念があってそういう生き方を選択した。それが間違っていたとは思わない」
まるで仕事中のような強い目をした社長。
私も姿勢を正して社長に向き直った。
「私の両親がそうだったように、空がどんな生き方をし誰とともに生きるのかを指図するつもりはない。間違った道を選ぼうとすれば文句ぐらいは言うかもしれないが、川田さんが相手なら文句もない。ただし、君自身がきちんと考えて、一生空とともに生きると思えるのならだ。私は賢介同様君のことを娘のように思っているからな。君との出会いは空よりも古いだろう?」
「そうですね」
十代で遥と知り合った頃から平石のお家に出入りしていて、何度か社長とも会っていた。
いつも面白いことを言って笑わせてくださる楽しいおじさまくらいにしか思っていなかったけれど。
「あの頃はかわいいお嬢さんとしか思わなかったが、素敵な女性になったな」
「そんな、もうおばさんです」
「そうか?私にとっては小娘だがな」
「社長」
楽しそうに笑う社長は、一生のことだからちゃんと考えろと言っているんだろう。
どんな選択をしようと反対はしないけれど、自分の選択には責任を持てという意味だと理解した。
正直、少し重たい。
空のことが嫌いなわけではないけれど、大きな可能性のある彼の将来を狭くしてしまうようで素直になれない。
自分の生活と、大地の成長と、その上空のことまで今の私には抱える自信がない。
ブブブ。
あ、着信。
ん?
「平石のおばさまです」
意外な人からの電話に私はそのまま通話ボタンを押した。