テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
教室の隅、陽の届かない席。その日の遥は、声を出さなかった。
喉が枯れていたわけではない。ただ、声を出す理由が見つからなかった。
蓮司は、当たり前のように隣に座り、耳元で囁いた。
「……今日はどこまでやる?」
その声は甘くさえあったが、遥の背筋にじわりと冷たい汗を滲ませた。
頷きもせず、拒絶もしない。
ただ、顔を背けたまま、教科書に目を落とす──“ふり”をした。
授業の内容なんて、ひとつも入ってこない。
黒板の字がぼやけて、紙の上の文字が泣いているように見えた。
胸がざわつく。理由はわからない。いや、わかってる。
今日もまた、“自分が自分じゃない時間”が訪れるのだということ。
なのに、誰にも止めてもらえない。
誰も、もう、遥に「それはおかしい」と言ってくれない。
蓮司の手が机の下、遥の膝にそっと触れた。
ぞわり、と背中が波打つ。
怖いとか、嫌とか、そういう単純なものじゃない。
感覚が、崩れていた。
──“される”ことは、ずっと日常だった。
だから、拒絶の仕方を、忘れていた。
蓮司と「付き合ってる」という噂は、すでにクラスに定着していた。
女子の視線は刺すように冷たく、男子は面白がってからかう。
日下部も、遠くから見ているだけだった。
誰も止めない。誰も問わない。
遥が“そういう人間”だと、周囲は勝手に納得していた。
“壊れてる子”の演技が、本物になってしまった。
放課後。
蓮司とともに、誰もいない準備室に押し込まれる。
鍵がかかる音が、心臓を締めつけた。
「ほら、こっち来いよ」
蓮司の声が、いつもの軽さで響く。
抵抗しなかった。いや、できなかった。
指先を動かすことも、顔をしかめることも、“演技”にしか見えなくなるのが怖かった。
脱がされるとき、遥はふと思った。
──「今、泣いたら、止めてもらえるだろうか?」
そう考えて、泣き顔の“ふり”をしてみた。
唇を噛んで、目を伏せ、肩を震わせるように。
演技か本気か、自分でもわからなくなっていた。
ただ、「サービス」だった。
“泣いてる俺”を見せれば、蓮司は一瞬、優しくなる。
その優しさが気持ち悪いのに、それでも“求めてしまう自分”がいた。
(おれは、なんでこんなことを……)
“演技”という名の逃避に、すがっていた。
蓮司は言った。
「お前、ほんと……泣き顔、いいな。惚れそう」
笑っていた。
遥も、笑った。
こわばった口元で、引きつった笑いを作った。
──この瞬間、死んだ方がましだとさえ思った。
けれど、死ねなかった。
それでも生きてるのは、“何か”を待っているからなのだと思った。
終わったあと、制服を直す遥の背中に、蓮司が言う。
「日下部に抱かれたい? そういう妄想とか、したりする?」
遥は、振り返らなかった。
蓮司が笑ってる顔なんか、見たくなかった。
けれど、心の奥のどこかが、びくんと跳ねた。
──“されたくない”と思ってた相手に、“何もされなかった”ことが、まだ消えない。
一週間、日下部の家にいたことがある。
何もされなかった。
その時間が、いちばん怖かった。
(壊される方が、楽だったのに)
優しさに触れたせいで、遥は、自分の“壊れ方”を見られた。
その恥を、今も思い出す。
何もしない人間の前で、怯えて、すがって、壊れていく自分を見られた。
それが今でも、ずっと、ずっと、心の奥を焼いている。
──だから、演じる。
演じ続ける。
「好きすぎて馬鹿みたい」と笑って、
蓮司の手を握って、
壊れてるふりをして、
恋人ごっこを続ける。
そうやって、
自分の「欲しがっていたもの」から、
目を逸らす。
それが、
遥にできる、
唯一の“生き方”だった。