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人工呼吸器、心電図計などのパネルの光だけが蛍のようにチカチカと瞬く以外は、闇に包まれた外科入院病棟の中で、それぞれに大型の懐中電灯を手にした亮介たち医師は、意識不明の重症患者たちの容体をひと通り確認し、院長を先頭に一人の老人のベッドに再び集まった。
重度の脳梗塞で自力では呼吸も困難な病状の男性で、人工呼吸器を外せばただちに死亡する。院長は白衣のポケットから黒のタグを取り出し、懐中電灯でそれを照らしながら他の医師たち、付き添っている宮田ともう一人の三十代の女性看護師に見せた。
医師は全員黙って小さくうなずいた。もう一人の看護師は顔全体を震わせて何かを言おうとしたように見えたが、両目を固く閉じて顔を横にそむけた。彼女の知り合いなのだろうかと亮介は思ったが、それを質問するのは、とっさに思いとどまった。
院長はその患者の頭の横に立ち、深々と頭を下げ手首のトリアージタグを黒に付け替えた。そして看護師二人に人工呼吸器を取り外すよう指示した。
二人目は糖尿病の高齢の女性だった。インシュリンの在庫が尽きているため血糖値の調整が出来ず、意識不明に陥っていた。唯一の救命手段であるインシュリンが入手不能な以上、どうしてあげる事も出来ない。再び院長が黒のタグをその場の全員に見せ、皆がうなずくのを確かめて、手首のタグを黒に取り換えた。
次に院長が向かったのは美穂のベッドだった。覚悟していた事とはいえ、亮介は膝がぶるぶる震え、そのまま床に崩れ落ちそうになった。
美穂は搬送されて来て以来、一度も意識を回復していなかった。前日行った血液検査でもクラッシュ症候群の症状を示す様々な値はわずかにしか改善していなかった。残りの患者の中で最も救命の可能性が低いのが美穂である事は、誰の目にも明らかだった。美穂のベッドの数歩手前で亮介は院長を呼び止めた。
「待って下さい、院長。僕にやらせて下さい」
院長は立ち止まり、目を見開き唇を小刻みに震わせながら言葉を返した。
「牧村先生……いや、それはあまりにも……」
そのまま絶句した院長に、亮介は懇願するような口調で、しかし凛とした声で言った。
「これは僕の役目です。僕が自分で、やらなければいけない事なんです。そう感じるんです」
「おい!」
背後から児玉が亮介の肩をわしづかみにしながら怒鳴った。
「牧村先生、あんた無理してるんじゃねえか? 医者だって人間なんだぞ! こんな時は俺たちに頼ったっていいんだぞ」
「僕は医師なんです」
亮介は必死で声が裏返るのを防ぎながら答えた。
「今は非常時なんです。人間である前に、美穂の婚約者である前に、医師でなければいけないんです。一人でも多くの患者さんの命を救うために。そして、それがどうしても避けられないなら、せめて僕の手で……だから……」
院長は踵を返し、亮介の横まで来て小声で「先生、済まない」とささやいた。何に対して「済まない」なのだろうか? それは亮介には分からなかった。言った院長にも分かっていなかったかもしれない。
亮介は自分の白衣のポケットから黒のトリアージタグを取り出し、周りに示した。院長は背を向けて歩き去った。
「私は院長室に戻っています。何かあったらそこで」
歩き去って行く院長の足音を背に、亮介は美穂のベッドへと歩いた。まるで石になったかのように重く感じる足を一歩一歩、必死で前に進めた。
その時が来たのは午前三時を数分回った頃だった。宮田が三階の内科病棟で検診をしていた亮介の所へ来て、外科病棟へ一緒に来るように言った時、亮介はもうこれから起きる事を悟っていた。
美穂のベッドの周りには院長、児玉、山倉が立っていた。亮介と宮田がやって来ると院長は亮介の目を正視できないといった表情で、かすかに視線を下に落として言った。
「牧村先生なら、自分で行いたいと言うと思いましてね。もちろん、辛いのなら、正直に言ってくれれば」
亮介は首を素早く横に振って院長の言葉を遮った。
「やります。いえ、僕にやらせて下さい」
院長は黙っていくつかの器具を亮介の手に渡した。亮介は宮田に記録を取るように頼み、美穂の手首に指をあてた。
「脈拍停止」
亮介は事務的な口調で告げ、聴診器を美穂の左胸にあてた。
「心音停止、確認」
それから指で美穂の瞼を押し広げペンライトの光を眼球に当てた。両方の目でそれを行った後、亮介は一度深呼吸をして最後の宣告を口にした。
「脳幹反射消失を確認。死亡時刻、三月二十七日午前三時十七分。判定者、南宗田中央病院医師、ま……」
ここで不覚にも亮介は声を詰まらせた。一瞬の間に様々な思いが亮介の心をよぎった。亮介は自分自身に必死で言い聞かせた。しっかりしろ、おまえは医師なんだ。最後まで医師としての使命を全うするんだ。
「医師、牧村亮介。死亡診断、完了」
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