テラーノベル
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目が覚めると、腕の中で阿部ちゃんが眠っていた。
母親に抱かれて眠る子どもみたいな顔で、薄く開いた唇からは静かな寝息が聞こえる。それを眺めているうちに自然と手が伸びて、寝乱れた髪をそっと払い、あらわになった頬を撫でる。と、長い睫毛に縁取られた瞳がゆっくりと開いて、阿部ちゃんが目を覚ました。
おはよう、と声を掛ければ、阿部ちゃんも嬉しそうに微笑みながら「おはよう」と返してくる。
そうして、昨日と同じ今日がやってきた。
窓の外からは静穏な海の音がして、部屋の中はちょうどいい気温だ。ずっとここにいても苦ではないだろうと思わせるくらいに。
いや、ずっとここにいるわけにはいかない。たとえ毎朝目を覚ますたびに阿部ちゃんが腕の中にいる幸福を味わえるとしても、おれたちがいるべきはここじゃない。今のところ解決に向かって前進している手ごたえはあまり無いけれど、一昨日に見つからなかったものが昨日見つかったのだから、昨日見つけられなくても今日見つかるものがあるかもしれないのだ。
阿部ちゃんにお腹がすいているか尋ねると、彼は首を小さく横に振った。おれ自身も空腹を感じないので、食事は後回しでいいかと考えながら体を起こし、ベッドを降りた。
部屋の中はやはり昨日と大きく変わっておらず、昨日にならって今日も順番に調べていくことにする。まず向かったのは本棚だ。昨日よりも少し本が増えているような気がして、よくよく目を凝らすと昨日は無かったはずの本を見つけた。『なまえのないひとのはなし』と題された一冊。一見したところ何の変哲もない絵本らしきそれを、開いてみる。
なまえのないひとにはなまえがありません。
あいされなかったからなまえがないのです。
あいされなかったにんぎょうにはなまえがありません。
だからなまえがわからないのです。
なまえがわかったら、なまえのないひとは。
ほんもののにんげんになれるのです。
真っ白い紙に赤い文字で、たったそれだけの言葉が綴られていた。
掠れ、歪んだ文字だ。それを見ているだけで背中に冷たいものが走る。おぞましく、そしてどこか悲痛さすら感じる、禍々しい文字列。
立ちくらみがしたかのように体がふらついて、頭の中に初めてここで目覚めた日の阿部ちゃんの様子が浮かんできた。
『あべちゃん、って、それが俺の名前?』
そう言って、ひどく嬉しそうに笑った阿部ちゃん。
その姿が脳裏によみがえった、そのとたん、ハッとして顔を上げた。
あれは。
あれは、阿部ちゃんではないものを――名前が無かった“人形”を、阿部ちゃんと呼んでしまったのではないか?
阿部ちゃんは人形だ。それは今までに見つけたヒントが示唆するところで、恐らく確実度が高い。そしておれは、人間だった阿部ちゃんが何らかの理由で人形の体にされてしまったもの、つまり見た目が人形に変えられただけで中身は変わらず人間の阿部ちゃんなのだろうと思っていた。けれどその阿部ちゃんが、今おれが阿部ちゃんと呼んでいる彼が、実は阿部ちゃんとはまったく別物の、阿部ちゃんの見た目をしているだけの、ただの人形だとしたら?
『なまえがわかったら、なまえのないひとは。
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三文小説
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ほんもののにんげんになれるのです。』
その二文が、血に濡れたような鮮やかな赤の文字列が、眼前に迫りくる錯覚を覚える。
――おれは、もしかして、とんでもないことを。
とすん、と何かが落ちる音がして、気がつくと手から本が滑り落ちて床に伏せていた。のろのろとした動作でそれを拾い上げ、うまく力が入らない手でページを閉じてから本棚に戻す。
これ以上は頭が回らない。
あるいは、考えたくない。
都合の悪い事実から、目を逸らしたい。
ひとときの現実逃避でしかないとわかっていても、そんな気持ちを認めてしまいたかった。
ひょっとすると、それを覆してくれる他のヒントが出てくるかもしれない。
根拠の無い希望に縋りながら、おれは次の場所へと足を向けた。
タンス、バスルーム、扉、ベッド――その上でただじっとおれの様子を見て、目が合えばにこりと笑む阿部ちゃん――と順番に調べてみたものの、変わったところは無く、新たなヒントも見つからない。徒労感に思わず溜め息をついて、最後に残ったキッチンへと足を踏み入れた。
キッチンもパッと見たところ特に変化は無い、いつもどおりのキッチンだ。昨日使った食器や調理器具は水切りかごに残ったままになっていて、使われていないものは収納場所に整然と並べられている。その中をじっくり見て回っていると、シンク下にしまわれている鍋の中にころんとドアノブが入っているのを発見した。
これはもしや、あのドアノブが無い扉にはめられるのでは?
脇目も振らず駆け足で扉に向かい、ドアノブをはめてみると、扉はさしたる抵抗もなくすっと開いた。
外に広がっていたのは、これまた真っ白な廊下だ。奥にはぽつんと扉が一つある。
ためらうことなど無かった。扉の外へ向かって一歩踏み出そうとした、そのときだった。
「どこに行くの」
心細げな声が、ふいにおれの背中を掴むように引き留めた。
振り向くと、まっすぐにこちらを見据える双眸と目が合った。ベッドから抜け出た阿部ちゃんが、ややおぼつかない足取りでおれのところへやってきて、手を掴む。
「ドアノブが見つかってドアを開けられたから、ちょっと外を見てくる」
「行かないでよ、外には怖いものがあるかもしれないじゃん」
「大丈夫だよ、様子を見てすぐ戻ってくるから」
そう諭しても阿部ちゃんはふるふると首を振った。俺の手を掴む彼の手に、きゅ、と力がこめられる。
「いやだ、俺を一人にしないで」
切々と訴える声は、泣いているのかと思うほどに震えていた。
おれがこの部屋を出ようとしたことが、彼の中の何かしらのスイッチを押してしまったのだろう。置いていかれる子どもみたいな顔になった阿部ちゃんは、「行かないで」と繰り返し懇願する。
「俺はここから離れられないのに、蓮だけがそっちに行っちゃうなんていやだ」
「大丈夫、ほんの一瞬ドアの向こうを見てくるだけだよ。怖いなら、おれが見えるようにここのドアはずっと開けておくから」
「やだ、置いていかないで」
「うん、阿部ちゃんを置いていったりしない。絶対に戻ってくる」
ね?と優しく頭を撫でて問いかけると、うっすら潤んだ瞳と視線が重なった。見てそれとわかる人形だったはずなのに、おれの目にはもう普通の人間と区別がつかない。大丈夫だ、この部屋には彼を傷つけるものは何もない。この部屋にいる限り、阿部ちゃんは安らかに、満たされたままでいられる。
――だから、おれが行かなくちゃ。
もう一度、目を合わせて頷くと、阿部ちゃんの手から少しずつ力が抜けていって、おれの手はするりと解放された。その手を今度はおれのほうからそっと包んで、ゆるく握ってから離す。
そして彼に背を向けると、ぽっかりと口を開けたように押し開かれた扉の外へ出た。
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一歩進めたのかな。 その先のドアの向こうには何があるのかな。 気になります。続き待ってます♪