テラーノベル
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真っ白な廊下を進んで扉に向かう。近づくごとに、冷ややかな雰囲気が漂ってくるのを感じる。直感的に、これまでとは違う空間に出るのではないか、という気がした。
たどり着いた扉には、薄く文字が刻まれている。
『ほんとうのことはざんこく』
――本当のことは、残酷。
心臓の奥が、すっと冷たくなる。けれど逃げるわけにはいかない。どんなに残酷でも、目を背けたくなっても、先に進まなくてはならない。
意を決して、扉を開いた。
部屋の中に入ると、たちまち全身が凍りつきそうなほどの冷気に襲われた。まるで冷凍庫かのように寒い。そして、壁も床も一面が紺色に塗られていて、さながら光の届かない海中にいると錯覚しそうだ。今までいた真っ白な部屋とは雲泥の差がある。あまり長居はできそうにない。
部屋にはテーブルと本棚があり、テーブルの上にはぼろぼろになった人形と一枚の紙が置かれていた。人形はすっかり傷んでくたびれており、ところどころ擦り切れたりほつれたりしている。よく見ると、どことなく阿部ちゃんに似ていた。おれたちがグッズとして出しているそれよりも、もう少しリアルな阿部ちゃんに近い造形。それがこんなにもぼろぼろになってしまっている。胸が痛むのを感じながらその人形をそっと撫でると、人形の首に何かが書かれているのを見つけた。
『抱いてくれたら真実を見せてあげる』
思わず両腕で人形を抱きかかえる。が、何も起きない。そのまま部屋じゅうに視線を巡らせても、何か変わっている様子は無い。
がっかりしつつ、人形を片手で脇に抱えながら今度は紙を手に取った。
真っ白な紙に、薄い青色のインクで文字が書かれている。
『にんぎょひめが王子様をナイフで刺せたら、うみに帰れたのに』
裏返してみると、そこにも同じように文字が書かれていた。
『お伽話のハッピーエンドはキスで締めくくる。だけどこれは、お伽話なんかじゃない』
不穏な、そして意味を掴みかねる文言。
何かをほのめかしてはいるのだろうけど、何を言いたいのか具体的にはわからない。いくら頭をひねっても無駄に時間が過ぎていきそうで、寒さで体力が限界になる前に情報収集を終わらせなくてはと、急いで本棚に移った。
本棚には『名付けについて』という本がこれ見よがしに置かれていた。かじかむ手でそれを取り、表紙をめくる。
名前を呼ぶという行為はそれだけで呪術的意味を持つ。人であれなんであれ、「名前をつけ、呼ぶ」「名前を呼び、愛していることを示す」という行為は一種の呪術だ。
それがそれでなくとも、それである、と定義することになるのだから。
その内容を理解すれば、何もかもが急速に温度を失いながらパズルのピースのようにはまっていく。
――やはり。
やはりおれは、阿部ちゃんではない存在を、“阿部ちゃん”と呼んでしまったのだ。
本物の阿部ちゃんがどこにいるのか、そのヒントは今まで一つも得られていないからわからない。けれどあの人形が何なのか、せめてその真実だけでも知りたい。この腕の中の人形がそれを見せてくれるというのなら、おれはそれを見なくてはいけない、という気さえした。
この部屋には他に情報を得られるものはなさそうだった。人形を抱きしめ、白い息を吐きながら、深海のように深く蒼い部屋を後にする。そして先ほど歩いてきた真っ白な廊下に出ると、たちまち全身が冷気と緊張から解放されてどっと緩み、思わず「はあっ」と声が出るほどの息を吐いた。
部屋に戻ると、ベッドに腰掛けてぼんやりとしていたらしい人形が、弾かれたように顔を上げる。
「蓮!」
安堵の表情を浮かべながら、人形はおれに抱きついてきた。反射的にそれを受けとめ抱きしめるおれの腕に、あたたかい体温とやわらかい感触が伝わってくる。さっきまでおれの体が冷やされていたからというだけではない。はっきりとわかる、人間の体温そのものの温度、人間の皮膚や筋肉そのままの質感。
――明らかに、人間になっている。
「ただいま、阿部ちゃん」
「遅いよ、心配した」
「ごめん」
「……もう、帰ってこないのかと思って、怖かった」
「絶対に戻ってくる、って約束したでしょ」
「うん」
人形は甘えるように抱きついてくる。彼は人形なのだと頭では思っていても、その表情やしぐさを見るとどうしても別人だと割り切ることができなくて、ついその丸い後頭部を撫でてしまう。
「蓮の手、冷たい」
「あ、ごめん。あっちの部屋、すげえ寒かったから」
「そうだったんだ。……ねえ、それは何?」
おれの首筋に懐きながら、人形はおれが抱えている人形に目をやった。その眼差しがどことなく冷たく、鋭いものになる。
「これ? あっちの部屋で見つけた」
「……こんなボロくて汚い人形、いらないよ」
「まあ、確かにだいぶくたびれてるけど、何となく阿部ちゃんに似てるし可愛いからさ」
「いらない!」
突然人形が声を張り上げて、おれは思わずびくっと竦んでしまった。
そんなおれに構うことなく、人形はふるふると細い肩を震わせ、睨みつけるような視線を人形に向ける。
「俺がいるんだから、そんなものいらない……元の場所に戻してきてよ」
そう言っていやいやと首を振り、まるで見たくないとばかりに再びおれの首元に顔をうずめた。
人形に対して過剰なほどに反応し、拒絶の姿勢を見せる人形に、もしかして、と考える。
「……ねえ、阿部ちゃん」
「……何?」
「本当のことを教えて。この人形は……」
そこまで言いかけたときだった。
ふわり、と風が窓から吹き込み、カーテンを揺らす。思えば、どうしてこんな深海に風が吹くのだろう。
風が揺らしたのはカーテンだけではない。扉の脇にある鏡に掛かっていた布も揺らし、それが音もなく床に落ちる。
そうしてあらわになった鏡から、こんこん、と音がした。
耳が拾い上げたその音が気になって、何だろう、とそちらを向いたおれは固まる。
「……え……」
鏡の向こうに、阿部ちゃんがいた。
見間違えるわけがない。本物の――大切な、大切な、おれの愛しいひと。
鏡を隔てた向こう側で、泣きそうに目を潤ませ、こんこん、と鏡を叩いている。薄く開いた唇は血色を失い、こわばって震えている。
もしかして。
彼はずっとここにいたのだろうか。
こんな顔をして、おれたちがしていたことをずっと見ていたのだろうか。
そう思ったとたん、罪悪感と絶望感が押し寄せて、心臓を押しつぶす。誰よりも何よりも大切で、この世で一番幸せにしたくて、彼を傷つけるあらゆるものから守りたくて、ずっとおれの隣で笑っていてほしくて。絶対にそんな顔はさせない、と固く誓ったはずだった。
もしかして、おれは。
――間違ったことを、していたのか?
「あ――」
名前を呼ぼうとした声が、口をふさがれたかのようにそこで途切れる。
ぐわり、と、立っていることすらままならないほど強烈なめまいが襲ってきて、おれは電源を引き抜かれた電子機器みたいに一瞬ですべての感覚を遮断され、そのまま眠りへと突き落とされた。
io
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鏡の中に囚われて居るの 人形の💚が本物になろうとして居るの… 摩訶不思議…