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#婚約破棄
霞花怜
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先ほどまでなら、その一文だけで胸が満たされていた。明日の朝、真理子をショートステイへ送り出す。瑞樹が夜勤から戻ってくるまでの時間を待ち、帰ってきた彼に抱きしめてもらう。
そのはずだった。
けれど今は、同じ言葉が別の意味を持って迫ってくる。
もし瑞樹が、すべてを知っているのだとしたら。
瑞樹は以前、人を探していると言っていた。探して、この町にたどり着き、そして見つけたと。 それが誰なのかは確認したことが無かった。
立ち入ったことは聞いてはいけないと思っていたし、聞く必要性が無かったからだ。
でももし、彼が探していた相手が自分で、朝倉奏だと最初からわかった上で近づいて来ていたのだとしたら?
何も知らないふりをして、隣人として近づき、優しくして、身体まで求めてきたのだとしたら。
スマートフォンの画面が暗くなる。
柊吾は、表示された自分の顔から目を逸らした。
「……違う」
そんなはずはない。もしかしたら、録音と言うのはハッタリで、何も聞いていないかもしれないし。
そもそも、あの時の会話を本当に録音していたとは限らない。
(そうだ。きっと、そうに違いない)
何度も自分に言い聞かせる。けれど、疑念は薄れるどころか、言葉を重ねるたびに輪郭を増していった。
もし、本当にそうだったら――。
これまで向けられてきた優しさも、甘い口づけも、隣室から聞こえる生活音さえも、すべてが自分を手に入れるためのものだったのだろうか。
瑞樹の底知れない執着が、ほんの一瞬だけ仮面の隙間から顔を覗かせたような気がした。
背筋がぞくりと粟立つ。
怖い。
そう思ったはずなのに、同時に胸の奥が締めつけられた。もし今までのすべてが嘘だったら、自分は何を支えにすればいいのだろう。
いっそ、本人に問いただしてみようか。
けれど、すぐに首を横へ振った。
だめだ。もし「そうです」と言われたら。もし、最初から自分が朝倉奏だと知っていたのだとしたら。
その真実を受け止める覚悟が、柊吾にはまだできていなかった。
知りたい。けれど、知るのが怖い。
急に、足元が底なし沼へ沈んでいくような感覚に襲われた。もがけばもがくほど、身体は重くなり、胸の奥まで泥に絡め取られていく。
瑞樹を疑うことも、瑞樹に聞くこともできない。ただ、何も知らないふりをして、これまで通り隣にいることだけが、今の柊吾に残された選択肢だった。
そんなものが選択と呼べるのかは、分からない。
それでも、瑞樹のいない明日を想像した瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
怖いのは、瑞樹の執着だけではない。
その執着が嘘であってほしいと願いながら、同時に、本物であってほしいと思っている自分自身の方が、よほど恐ろしかった。
柊吾は震える指でスマートフォンを握り直した。瑞樹からのメッセージを開くことも、返信することもできないまま、ただ画面に浮かぶ名前を見つめる。
やがて、真理子がテレビの音に合わせて小さく笑った。
その声に我に返り、柊吾は慌ててスマートフォンを伏せた。
「……そうだ。母さん、桃があったよね。食後に出そうか」
「桃?」
「うん。冷やしておいたんだ。甘くて美味しいと思うよ」
努めて明るく声をかけながら、柊吾はキッチンへ向かった。
冷蔵庫を開ける。冷気が頬に触れても、火照った身体とざわつく胸は静まらなかった。
それでも、何でもない顔をしなければならない。母の前でも、瑞樹の前でも。
桃を取り出し、包丁を握る。刃先がかすかに震えた。
まな板の上で桃を切り分けながら、柊吾は何度も息を吐いた。
胸の奥に沈んだ不安は、桃の甘い香りに紛れることなく、ゆっくりと重さを増していった。
コメント
3件
おっと〜???????? 本当であってほしい?、嘘であってほしいと思いながら、本当であってほしい…だって!?!?!? 最っ高じゃないですか!!!!! マジで柊吾様のドMなんですから〜♡ 本当にとてもお可愛らしいですわぁ♡ マジで推してます!!!✨️✨️
うわあああ〜〜〜!!この回、心臓にグサグサきたよ…😭💔 柊吾の「知りたいけど怖い」って気持ち、手に取るようにわかるし、瑞樹の優しさが全部嘘なんじゃないかって疑い始めた瞬間の背筋の冷たさ、めっちゃリアルに伝わってきた…! しかも「執着が嘘であってほしいけど本物であってほしい」って矛盾した気持ちに自分で震えてるの、もう柊吾の心情が痛すぎて泣く…。桃切る手が震えてる描写とか、何でもない顔しなきゃって強がる姿に胸が締め付けられたよ…! 次話が待ちきれない〜!!🌸✨