このアダルトスクールには、健太の通う語学コースの他に、進学や就職へ向けてのハイスクール・コースがある。後者のコースを出ると、この国での高卒の資格を授与される。生徒は主に南米からの移民で占められているが、旧ソ連圏の生徒……ロシア、ウクライナ、白ロシア、アルメニア、グルジアなど……も最近は増えている。午前中はカフェテリアにて高校コースの卒業式が執り行われ、その催物の一つに健太とヘラルドのピアノ連弾があった。
卒業生の帰ったあとのカフェテリアは、祭りのあとの静けさが際立った。つい十分ほど前まで三百人が整列していた同じ大広間に、レジのおばさんと立ち話をしている掃除夫の声が遠くから響いている。健太はヘラルドのおごりのエスプレッソを飲みながら、今日のピアノについて感想を述べ合った。
「すみません」キヨシが汗だくでやってきた「間に合わなくて。授業抜けれなかったです。でもまさか、無事終わったんですか」
天にも昇る美しいプレイを聞き逃がしたなと健太は言った。ヘラルドが横で笑っている。健太とヘラルドが弾いたのは石を岩にぶつけるような激しいブルースだった。
「ろくすぽ練習もしないでよくもまあ、言うことだけはご立派だ」とキヨシは言った。健太は、うるさいなあの「る」で大あくびが出た。
「昨日は遅くまで、一体何話してたんですか? ツヨシさんは今朝出発だったでしょうに」
キヨシは夜中に目が覚めるたびに、私道に向かった窓のカーテンを開いたという。そのとき、向かいの二階の健太達の部屋に電気がついていた。
健太は「軽いお遊びだと思ってくれても構わないけど」と前置きをしてから、公用語のこととか、パスポートのこととか、国旗のこととか、昨夜の「ハーバー共和国」について話した。
キヨシは身を乗り出した。ヘラルドは所在なさげに手のひらにあごを乗せている。
「ところで、誰が国民になるんですか」とキヨシが聞いた。健太は、ハーバーのアパートに来た人の自覚意識に任せるよと答えた。
ヘラルドが「じゃ」と言って席を立った。会員になっている家の近所のジムで運動してくるという。「ハーバー共和国」の国籍取れるチャンスを逃すつもりか、と健太はヘラルドの背中に向かって言った。ヘラルドは振り向くと「俺はメキシコ国籍だけで充分だよ」といって去った。
「ハーバー共和国も、独自通貨作ってみませんか」とキヨシは言った。彼の中級英語クラスでは、地域通貨の話がテーマになっていたという。キヨシによれば、一部の自治体や商店街ではすでに始まっている試みで、通貨の形は星型からカードまでさまざまな形態があるという。
「それには、使用目的が重要になってきます。ハーバー共和国の場合も、使用目的は経済発展ですか」
健太はテーブルの上の、サンドイッチの入った紙袋に目を落とした。破れたところはセロテープで補強してある。四つ折にして鞄にしまった。
「それって、相当効くのか」
「いえ」
二人はそこで黙ってしまった。
店内に流れるBGMが一曲終わった。
「通貨って、交換のためにあるんですよ。でも、なにも目に見えるものだけが対象じゃないですよ」その例としてキヨシは、健太が働いている旅行業をあげた。
「今の俺達の間で毎日交換されているものって、なんだろうね」
健太は腕を組んだ。目に見えなくてもいいわけだろ。キヨシは「うーん」と唸ってばかりいる。
BGMが次々に流れていく。窓の外は、明るくなったり暗くなったりを繰り返している。
健太は突然、テーブルを叩いた。
「なんですか」
健太は黙っている。
「早く言ってください」
「心だよ、心。俺達、心を通わしてるよな」
「そんな答えですか、つまらんですよ」
「待て待て、これから面白くなる」健太は言った「通貨って、星型でも何型でもいいんだよね? ならば、ハーバーの通貨は『無型』にしよう。心の交流をしながら、共和国をさらに豊かにしていく。そうして心に溜まった富は喜びへと兌換される」
「一人で盛り上がってないで、もっと分かるように話して下さい」とキヨシは言った。
「つまりこうだ」と健太は言った「豊かさは経済だけを指す言葉ではないよな。心が豊かな場合もあると思わないか」
キヨシはうなずき、そして言った「でも、それじゃ今の僕達のまんまじゃないですか」
「経済の豊かさは、大きな国に任せよう。ハーバーで経済通貨を作ったって、サンドイッチに挟むハム一つさえ換えれない。 でも、この国にあって大国にはないものって、何だ?」
「何ですかねえ」
「信頼と友情だよ。それだって、立派な富だ。銀行じゃなくて、心に溜まる」
「健太さん、今日は調子乗ってますねぇ。話してることは訳分からないけど」
「そして溜まった心の富は、仲間内で分けるんだよ。
例えばみんなで一緒に買い物に行ったり、食事をしたり飲んだり勉強したりして、幸せを分配するんだよ。それは何も、ハーバー共和国では特別なことではない。今までやってきたことそのままだから」
「質問ですが」とキヨシは言った「幸せに払う対価って、何ですか? 何をどれくらい払えば、みんなに分け与えられるだけの幸せが手に入るんでしょうか」
「なかなかまともな質問になってきたな」と健太は言った「これまで通り、自分のできることで、みんなのために貢献すればいいんだよ」
「言ってる意味がまだよくわからないんですが」
「例えばキヨシはウチの部屋にきて、夕食作ってってくれてるよな。その貢献が『支払う対価』で、その結果、俺やツヨシやミエや本人の君までもが、食卓を囲んで楽しい時間を過ごしてる。それが、幸せとその分配だ」
キヨシは「そういうことか」と手をパチンと打った「まだ分からないこともありますけど、ちょっとだけ分かってきたような気もします」
夕方からの語学コースに通う生徒が、徐々に店内を埋め出した。健太とキヨシはテーブル席を立ち、窓際のグランドピアノへ移動した。ピアノの外板は、塗装がはげて木目が見えている。キヨシは横に立って、健太の指が動くのを待っている。
卒業式の最中は緊張していて気付かなかったが、今あらためて見ると、鍵盤の天板が剥がれて中から木目が見えているものもある。健太はポロロンとまとめて鳴らしてみた。なんとなく音は合っている。次に、コードの構成音を一つずつばらばらに鳴らしてみた。お互いが異なった響きを持っている。
「ミエ、旅行してて不協和音立ててないですかね」とキヨシが言った。
ツヨシがいるし、まあどうにかなるでしょと健太は答えた。
「ところで、そのツヨシさんですけど。気をつけた方がいいですよ」
健太は、鍵盤に振り下ろそうとした手を止めた。
「いや、別に悪気はないんです。健太さんのために言っとくだけです」キヨシははっきりとは言わないが、ツヨシは見た目と違い非常に嫉妬深い人間で、女の子の人気を健太に取られることを快く思っていないと言いたいようだった。
どこから出た噂か知らないが(おそらくミエだろう)、それは健太にはおかしな話だった。第一、健太はルームメイトとして他の誰よりもツヨシとの共有時間が長く、その限りにおいてそんな様子を見たことがない。第二に、今回の女の旅に参加しているのは、健太ではなくツヨシの方だ。
「何を思ってそういうのかは分からないけど、あんないい人はいないと思うよ」と健太は言った。
「わかってますよ。いい人には変わりないです。同感です」キヨシは半袖Tシャツを肩までたくし上げた「それよか、俺にピアノ教えてくださいよ」
そのとき、サングラスにアーミールックの青年がカフェテリアにやってきた。ミエのパーティで見かけた男だ。痩せ体型の胸を反らし、がに股気味に歩いている。
「どうしたんですか」
「いや、別に」健太は鍵盤に手を載せた。
迷彩服の男はこちらに向かって歩いている。キヨシは健太の目線の先を振り返った。
「おお」
キヨシはそのヤンキー風の男と握手をすると「クラスメイトのDJです」と健太に紹介した。健太は「やあ」とだけ言って再び鍵盤に目を落とした。そして左手をCにオクターブに置き、右手をCコードに置き、そこからのブルース・コードの展開をやって見せた。
「難しそうですね。僕はやっぱりこの学校の英語コースの生徒ですから、英語に生きます。そして英語身につけたら、大学で法律の勉強したいんですよ」
「お前さんがもしクソ弁護士になれるなら、俺は大統領にだって軽くなれるよ」と、DJという男は言った。
「ところでハーバー共和国の話から脱線しちゃいましたね」キヨシはDJに健太と話したことを説明し出した。健太は会話には加わらず、ブルースを弾いた。
「ばらばらな音をまとめるには、やっぱりルールがあるでしょう」とキヨシは言った。健太は、ド・ミ・ソはお互い異なった音だけど、その持ち味があるから合わせると響きあうんだよ、と言った。
「法律もルールですからね。ハーバーの法律にも言えますかね」
「国民の持ち味が生きる法律じゃないと、意味がないだろうな」
「やっぱり、ここって言いたいんでしょ」キヨシは心臓の辺りを手のひらでパタパタやった「それは不文法っていうんですけどね、文章に書く明文法に対して。でも、それならどうやって法律が守られているかチェックしましょうか」
それは心の痛み具合や響き具合でわかるだろう、と健太は言った。
「ピアノからそんな話ができる人はこれまで見たことないです」といってキヨシは笑った。初対面で年下のはずのDJは「お前、変わったヤツだな」と言った。
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