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星の薄まる朝、私は誰も居ない豪邸で目覚めた。豪邸といっても、仏蘭西貴族のような豪華さや絢爛さは無い。今横になっている寝床に敷かれた布は、真っ白で質素だが使い古されていて歴史を感じる。だが、布と真逆に桃花心木の机や椅子は新品に見えるまで磨き上げていた。 私が此の豪邸に住むことになったのは数週間前の事である。私の住んでいた山が放火されたと聞いて急いで駆けつけると、火焔に隠れていた狼や犬に取り押さえられて車に詰め込まれたのだ。其の儘、東洋の大陸を越えて西欧まで連れて来られてしまった。狸寝入りして狼の話を盗み聞きすると「麒麟の皮を剥がして売る」と聞こえたのでまさに火事場の馬鹿力なのか車の天井を突き破り、無我夢中になって街を走り廻った。手脚は傷だらけで火傷も酷く、息も絶え絶え辿り着いたのが此の豪邸である。豪邸の主である竜の医者は私の傷に包帯を巻いて、これまで色々と世話をしてくれた。そして傷が治った後も「治安が悪いから此処に住むと良い」と住まわせてくれて家事を任せられた。
その先生は最近医師免許を取ったばかりで大学病院に寝泊まりしたり、戦場に駆り出されて軍医として務めているので家には殆ど居ない。思い返してみれば、最後に会ったのは一週間前の晩餐である。私はそれから暇を持て余して毎日書斎に引き篭もり、医学雑誌や図鑑、法学や寓話の本を読み込んで欠かさず新聞を確認した。いつ帰ってくるのかさえも分からず、馬鈴薯や人参だけは買い占めておいたが一頭には多すぎる。麒麟が外を歩いていると全員が不気味そうに睨んでくるので気分も悪い。ずんぐりむっくりな鹿擬きが街を歩いて何が悪いのだろうか。西欧に来てからは毎日が兎に角窮屈で居心地が悪い。然し、良いところも沢山ある。例えば此の豪邸は書斎の窓を開けると一面が青く澄んだ海で、寝室の窓を開けると街が一望できる。何処から顔を出しても最高の眺めだ。そして先生の部屋は面白いものが沢山ある。例えば三本しか無い万年筆は全て柄が違って、一本目は白金製で淡青の宝石を纏っており、尖ったペン先には細かく花の模様が彫れている。二本目は冴えた白色に月光のような金剛石で鱗を造り上げて万年筆そのものを魚に見立てている。三本目は琥珀の万年筆で手に収まりやすい。そんな三本を硝子のペン立てに入れて、頻繁に使っている。棚に収まっている木の入れ物は提琴が入っていて、時々先生が取り出して曲を弾く。前にはヴィヴァルディの「四季」より冬を弾いているのを聴いた。先生の奏でる繊細かつ根の生えた音が耳から離れなくて今でも求めている。彼の言葉にも背筋にも似合った音が好きで、性格はまだ分からないがそのうち好きになるだろうと分かった。目が覚めて初めて彼の顔を見た時、込み上げてくるものがあった。智恵を貯めた努力の結晶とも思える眸。心の底まで傷ついて今にも崩れ落ちそうな身体を繋ぎ止める金牌の数々。先生は全員に見捨てられてきたんだろうな、と一目で分かった。それでも頭脳明晰と見て、自律し自立していた。数日過ごしたくらいじゃ全く分からないから四六時中時間を共にしたいと思う。そういえば先生の服装だが、私が見た中では緑色の襟締にウエストコート姿が定説である。洒落た姿を見た事がない。それに服を掛けている部屋を覗いてみると全て黒で、まるでお葬式だ。でも靴には拘りがあるのか白い革靴で、いつも暇があれば手入れしている。孤独かと思えば偶に誰からか分からない手紙が溜まっていたり、他国から郵便が来たりもするから彼の事が本当にわからなくなった。手紙の内容にはお土産を持って向かうとか、論文が面白かったとか色々とある。私は内容よりも色彩に満ち溢れた切手を眺めるのが好きだ。例えば鯨夫人だったり、花園に蝶々、国王陛下、薔薇と月、海の波と国旗などがある。偶に先生が書こうとして諦めた手紙の返事が出て来て腰を抜かす事があった。内容は少し陰気で「お前が俺を殺そうと企んでも俺にはお見通しだし、馬鹿馬鹿しいから早く済ませてくれないかなとも思う」という冒頭から始まり火葬の話に移り変わってゆく。その返事に繋がる手紙を探そうとしたが一枚も見当たらなかった。日付も時々ズレていて不都合な手紙だけを取り除いているように見える。もしかすると肝も冷えてしまうくらい恐しい手紙が届いて捨てたのかもしれない。封筒やらの束を棚に戻していると電話がジリンジリン鳴った。
「はい」慌てて答えると、どうも疲れたらしい鼻息が聞こえる。
「クルル」
「先生、お久しぶりです。手術は順調でしたか?」
「予定の手術は問題なかったが、寝不足で倒れて骨折した」
耳を澄ましてみると杖をつく音がコツコツと聞こえる。「それは大変ですね、お気の毒に」と心配したくもなったが、此の竜は心配されたり親切にされることを嫌っている。私は敢えて冷然と返事した。
「はあ、医者が怪我するってどうなんです。帰れますか」
「足趾骨折だから歩いて帰ろうと思う」
「迎えに行きます。怖いので」
私の良心は放置を許さなかった。彼は骨折しても助けを求めない勇敢さがあるだろうが、自分に対して優しさの欠片もない男である。先生は焦る様子もなく、寧ろ微笑んでいるようだった。
「夜、女性が外に出たら危ないだろう」
「決めつけはよくないですよ。骨折している人が出歩くのもどうですかね? 居候させていただいている身からすると、こんな事を言うのは大変恐縮ですが」
流石に嫌味がすぎたか、と心臓を揺らして返事を待つ。矢張り、先生は笑っているらしくクツクツと喉奥が鳴っていた。
「なら、帰りに二頭で酒でも呑もう」
二頭で、と強調されたので私は心の底から安堵していた。そして息を吐くと同時に言葉がパラパラと漏れていってしまった。
「良いですね。訊きたい事が沢山ありますんで丁度よかった」
「訊きたい事?」
怪訝そうに訊き返されて、あの爬虫特有の眼が浮かんだ。対面しているわけでもないのに顔の毛細血管が拡張して暑くなるのを感じた。赤面とは此の事だろう。恥じても仕方がないので素直に答える事にする。
「医学雑誌、全て読んでみました。そしたら分からないところが沢山あって」
様子を窺うようにして耳を当てると、先生は愉快そうにしていた。私が怯えているからか彼は痛快そうにして声を出して笑う。
「なぁんだ、医療に興味があるんじゃないか。弟子入りでもするつもりか」
「出来たらな、って思いますよ。尊い仕事じゃないですか」
顔が紅梅色に染まって湯気が出る。頭が沸騰してぐつぐつと音を立てているようだった。先生は「ふぅん」と感心したように鼻を鳴らして、ならば早く呑みに行こうかと話を纏めた。私は暫く身動きも取れずに顔をモシャモシャと撫でていたが、埒が開かないので荷物を鞄に詰めた。何冊か雑誌や本を入れて財布も入れる。最後に着物の袖や皺を確認すると部屋の戸締りをして鍵を閉めた。空を走りながら少し考えてみたが、西欧の酒屋に中国酒や霊酒があるわけない。