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呪いの乙女が踏みつけていた魔導書の魔法は力を失い、魔の潜む深淵の如き闇が払われた。月明りに浮き上がる薄闇の聖市街を眺めながら、ユカリは【梟の鳴き声を真似する】。
世に存在するあらゆる宝石の輝きを備えた絢爛豪華な羽根をその身に纏った梟が祈りの乙女の肩を飛び立った。星明りを色とりどりに乱反射して照らした聖市街の街にはもう人影が見えなかった。子供たち全員が逃げ出せたのならいいが、それを確認するのは後回しだ。
星明りを浴びて、風を切るように静かに翼を羽ばたかせながら、ユカリは試しに嘴で口笛を吹いてみて、人形遣いの魔法をかけたパディアの方へ意識を向ける。
呪いの乙女の闇の魔導書の回収をパディアとビゼに頼もうとユカリは考えたのだが、すでに二人は丘を降りており、呪いの乙女の巨像が崩れた西の野原にいた。どうやら焚書官たちを追っていた末にたどり着いたらしい。
しかし二人の行く先に、ただでさえ暗い夜の野原にあの魔法の濃い闇が溢れている。もう魔導書を焚書官に回収されたのか、呪いの乙女を操っていた者も巨像のそばにいたのか。
「パディア!」と言ってビゼが伸ばした手を、パディアが楽しそうに【笑いながら】掴む。もう一方の手には迷わずの魔法の魔導書を握りしめている。
そして二人はそのまま躊躇いなく闇の中へと突っ込み、野原を駆け抜ける。意識をそばに置いたユカリでさえ、天地も分からなくなるほどの真の闇だ。しかしパディアとビゼは躓くことも迷うこともなく、闇を抜け出て、呪いの乙女の瓦礫にたどり着く。
眼前には大量の焚書官が待ち構えていたが、パディアが先んじて、相手取った。唱えた呪文は魔導書を触媒に増幅する。辺りに散らばった呪いの乙女の瓦礫が焚書官を蹴散らしながら宙を飛び、パディアの杖の先に集まった。
二人の視線の先には小柄な焚書官がいる。羊皮紙を掲げて、他の焚書官やパディア、ビゼを【罵倒している】。
「来たぞ! さっさとぶっ潰せ! のろまども!」と罵る声は子供のように甲高い。
この罵倒が呪文ならば、闇の魔法を行っていたのはユーアではないということになる。
「あいつだな」と言ったビゼは涙を流し、その声は【震えていた】。
小柄な焚書官は卒倒するようにその場に崩れ落ちる。恐怖に飲み込まれたようだった。
パディアが杖と集めた瓦礫を掲げ、炸裂させた。礫が全方位に放たれ、焚書官が次々と打ち倒される。譲り渡された道を駆け抜けたパディアは小柄な焚書官の所持していた魔導書を手に入れる。パディアは魔導書を掲げて、ビゼの方を振り返るが、口を開閉しただけで言葉は出てこなかった。
ビゼも喉を抑えている。またしても声が失われてしまったらしい。
パディアよりもビゼよりも先に、背後霊のごときユカリの意識が、払われた闇の向こうから現れるチェスタを見つけた。
チェスタは影のように静かに抜刀し、流れる水のようにパディアの背後へと迫る。
ユカリがパディアに喋らせて伝えようとするが、やはり声は出なかった。代わりに右腕を動かし、チェスタを指さす。パディアは一人でに動いた腕を見、その指先へ駆けてくるチェスタに気づく。振り上げた杖がチェスタの剣とかち合った。切っ先がパディアの首筋に触れるか触れないかのところで止まる。
「何です? その腕? まるで貴女より先に気づいたようですが?」とチェスタはパディアに問いかける。「ああ、喋れないんでしたね。ようやくこの魔導書の使い方が分かってきたところです。これは魔法使いの天敵のような魔法ですよね」
チェスタの邪な手で手を触れられそうになり、パディアは飛び退く。パディアは十分に距離を取り、足を一定の間隔で踏み鳴らし、同じように心臓の辺りを拳で叩く。それは己を鼓舞するおまじないだ。呪文のいらないささやかな魔法ではあるが魔導書があれば話は違う。
パディアの体は身軽になり、手に持つ杖は体の一部のように馴染む。祭日の夜に踊り狂う異端の祈祷師のようにパディアは杖を軽快に振り回し、二度三度とチェスタに叩きこむ。
一見、チェスタがただただ追いつめられているように見えるが、その剣はパディアの杖を受け止めつつ、時折何もない虚空に振るっていた。その度に見えない何かが悲鳴をあげて、大気を震わせる。
パディアの後方でビゼが儀式めいた所作を繰り返している。手で土を掘り、乾燥した花弁を振り撒く。白い粉と赤い粉を両の掌の上にそれぞれ置いてしばらく待つと粉が弾け飛ぶ。すると見えない何かが野原に足跡を残しながら飛んで行く。パディアもビゼも呪文を使わない魔法を心得ているのだ。
それら全てにチェスタは対処しているようだが、徐々にチェスタに異変が現れ始める。チェスタの僧衣が、何者かの見えない巨大な手に掴まれたかのように体に張り付く。手の数は増えてゆき、それに比してチェスタの動きは重くなっていった。とうとうパディアの杖の先端がチェスタの脇腹に直撃し、山羊の仮面の首席焚書官は蹴飛ばされた小石のように吹き飛んだ。
ユカリはさらに異変を見つけ、パディアも同時に気づいた。チェスタの後方、街の方から砂煙を立てて大集団がやってくる。その集団はヘイヴィルの街のあちこちに設置されていた子供のような背丈の女神像だ。十や二十ではない。小さな祈りの乙女と呪いの乙女が月明りを反射して、煌めき、嵐に煽り立てられて怒り狂う海の怒涛の如く迫っている。
パディアは退避する。どこに逃げられるのかも分からないが、それらは小さいとはいえ石の塊であり、かつ多勢に無勢だ。直にチェスタが飲み込まれるだろう。パディアがビゼの方へと振り返ろうとした時、ビゼがパディアの隣を横切った。ビゼは女神像の群れが迫るチェスタの方へと駆けてゆく。チェスタが持っている沈黙の魔法の魔導書を回収するつもりらしい。
「ビゼ様!」とパディアが声を出したのとほぼ同時に、遅れて像に気づいたチェスタが飲み込まれる。パディアがビゼを止めようと走り出した時にはビゼもまた腰丈ほどの女神像の津波に飲み込まれた。
一方パディアは杖を豪快に振るい、瓦礫を弾き飛ばして小さな女神像の群れを薙ぎ倒し、その群れに分け入っていく。倒れていたビゼを見つけると片手で持ち上げて脇に抱えた。
「どけ! 人形ども!」とパディアはらしくない声音で【罵倒する】。
すると煮立てた鍋から立ち昇る水蒸気のように大地から闇が噴出する。暗闇に飲み込まれてもパディアは【微笑み】を絶やさずにどこかへ真っすぐに突き進む。
その黒煙よりも濃い闇が夜空を飛ぶ魔性の梟の眼下に広がっていた。梟の羽根の輝きは地上に降り注ぐ前に闇に飲み込まれる。パディアがどこにいるか分からないが、目くらましの闇を光の魔法で晴らすわけにもいかない。闇の中から出てきたところを助けようと旋回して様子を伺う。
その時、天から無数の光が差して、闇を払ってしまった。ユカリは祈りなど捧げていない。魔導書の魔法を魔導書を所持せずに使える者など一人しかいない。
梟と女神像たちはほとんど同時にパディアとビゼを見つけた。それが故に空高く旋回する梟は救出に間に合わず、二人は像の群れに薙ぎ倒され、踏みつけられてしまう。舞い降りた魔性の梟は女神像を蹴散らして、二人をもぎ取るように掴んで、再び舞い上がり、像の群れから遠く離れた木陰へ避難する。
酷い有様だ。意識を失い、血を流し、色濃い痣に染まっている息も絶え絶えなパディアを見るに、ビゼを庇ったのだろう。
「パディア! ああ! 何てことだ!」ビゼがパディアのかたわらへ飛びつく。
取り乱しながらもすぐに手当てを始めるビゼの背中に罵倒するのをユカリは堪える。
「私が引き付けます。魔導書を渡してください」
ユカリはパディアが握りしめていた迷わずの魔法の魔導書、呪いの乙女の闇の魔導書を手に取る。
「ビゼさん。勇気を与奪する魔導書は持っていますね?」
「ああ。待ってくれ。今、渡す」焦りながら懐を探るビゼをユカリは制止する。
「いえ、それはパディアさんを守るために、持っていてください」ユカリはビゼを手で制す。「それと、決して魔導書のために身を投げ出したりしないでください」
「僕は……」ビゼはそれ以上言葉が出てこず、俯く。「いや、すまない」
「責めているわけではありません。ビゼさんは魔導書を取り戻そうとしただけ。パディアさんはビゼさんを助けようとしただけ。それだけです」
「だけど、すまない。パディアは僕を助けてくれたけど、僕は白紙の魔導書を取り戻せなかった」
ユカリは言いたいことと言うべきことを峻別し、二人に背を向ける。
「気にしないでください」
再び夜にも美しい梟となって飛び立つと、女神像たちが呪いの乙女の瓦礫の周囲に集結していた。そこから離れた場所で焚書官たちが集まっている。どうやらチェスタも助け出されたようだ。魔性の梟は躊躇いなく、山羊の仮面のチェスタのそばへと舞い降りて、魔法少女の姿に戻る。焚書官たちの何人かが抜刀し、何人かは杖を構える。ユカリも豪華絢爛な杖を構えるが、横たわるチェスタが軽く手をあげると焚書官たちは控えた。
「魔導書収集家のユカリさん。お久しぶりですね。ああ、いや、火から逃れて石の木偶の下に隠れていたのは知っていますが」
「白紙の魔導書は?」とユカリは生家の仇を見下ろして言った。
「聖典は奪われましたよ。あの状況です。当然でしょう。人が死にかけているというのに、聖典の心配ですか?」
「自業自得だよ。それより何で突然白紙の魔導書が使えたの?」
チェスタの顔に唯一残された唇が軽く歪む。
「それですか。聞けば笑えますよ」
「良いから教えてよ」
「炙り出しでした」そう言ってチェスタは苦笑する。
時折見る前世を垣間見ていると思わしき夢に出てくる子供が『ユカリ』なのだとすれば、そういった遊びを魔導書に仕込んでいてもおかしくないだろう。
「そういうことね。でも魔導書の文字は読めないでしょう?」
「文字は読めますよ。もちろん、信心深き首席焚書官には聖典の文字が読めます。それはそれとして、割と分かりやすく図解もされていましたからね」
「そう。それにしても、焚書官のくせに今まであの魔導書を焼いていなかったってわけだね」
「何の話か分かりませんが、私たちは別に無暗矢鱈に火をつけているわけではないですよ」
実質魔導書だと認めているような会話をしながらも、決して言葉の上ではあれが魔導書と認めるつもりはないらしい。
ユカリはチェスタの脇腹を蹴飛ばすと、悶える首席焚書官を脇目に再び空へ飛び立った。