本来街角で市井を見守っていたはずの小さな女神像たちは、聖市街の西の端で都市国家ヘイヴィルを見守っているべき呪いの乙女の哀れな残骸の元に集結している。
その悠久の歴史の骸の上にユーアが縮こまって座っていた。梟はそのそばに舞い降り、魔法少女の姿に戻る。
「ユーア。久しぶりだね」
星のない夜のような漆黒の髪、新しい煉瓦のような赤茶色の円らな瞳。クチバシちゃん人形と同じような豊かな襞の裾を身につけている。
ユーアは一枚のくたびれた羊皮紙をつまらなそうに眺めていた。残る一枚の白紙だった魔導書だ。
「それ、私に渡してもらえる?」
ユーアは何の躊躇いもなく興味もなさそうに魔導書を放り捨てた。ひらりと舞い落ちる魔導書を悪戯好きの小さな風が捕まえて、ユカリの元へと吹いてくる。ユカリは慌てることなく魔導書を掴み取り、そこに書かれた異世界の文字に目を向ける。
たしかに炙り出しで文字が読めるようになっている。沈黙の魔法だ。手話、という手振りによる言葉が呪文になるらしい。確かにチェスタの言う通り、図解でもって手振りの手順などが描かれていた。これなら文字を読める必要もないというわけだ。
ユーアはこれをも身につけてしまい、魔導書そのものに備わった絶大な力を借りることなく、己の魔法と神秘だけで行使できるのだろうか。
その羊皮紙の一番上に書かれている重要な言葉にユカリは気づく。
曰く、十一番目の最後の魔法。つまり、おそらく、これで一冊の魔導書が完成するということだ。
ユカリは再び、遠い悲しい過去と来るべき美しい未来を見据える瞳をユーアに向ける。ユーアの方は明後日の方向に顔を向けていた。何も期待できない虚無を見つめる瞳だ。
「ユーア。こんなことはもうやめよう」ユカリの魔導書を握る手に力が籠る。「幸せを願うこと、そのものは否定しないけど、誰かに押し付けちゃ駄目だよ」
その言葉はユーアの何にも届かず、破けた帆が長年連れ添った風に対してそうするように受け流す。
ユカリは途切れないように話す。「ねえ、ユーア。前みたいに魔法で私を喋らせていいから、話をしよう?」
ユーアの視線は瓦礫の山の麓へと流される。その小さな期待の彩る視線の先に少女が瓦礫を登ってきた。秋の小麦畑のような深い黄金色の髪に夏の瑞々しい野原のような濃緑の瞳。華奢な体に身につけた灰色の長衣は土埃で汚れている。メア、いや、クチバシちゃんだ。
「ああ、疲れた。こんなに歩くの久しぶりだわ。そろそろ機嫌直せよ、ユーア。あたしたち上手くやってるだろう?」
ユーアは答えないが、しかし真っすぐにクチバシちゃんの目を見て、その言葉を受け止めている。
「それにユカリの言葉なんて聞かなくて良いからな」クチバシちゃんもまた真っすぐに信頼しきった瞳でユーアの目を見ている。「押しつけてはいけないだって? いけないものを押し付けるわけじゃねえよ。皆が幸せになって何が悪い」
ユカリはクチバシちゃんの操る少女メアを見つめる。語気が強くならないように平静を努めて話す。
「不幸になっている人がいるじゃない。子供を攫ったりして」
「ただ親元を離れるだけだ」クチバシちゃんは立ち止まり、腕を組んでユカリを見つめる。「それとも何か。子供は親がいないと幸せになれないのか?」
「いいえ。親がいなくても幸せになれる。でも親がいても幸せになれる。他人の人生を勝手に変えるなってことだよ。人間の人生は人形劇とは違うんだよ。クチバシちゃん」
「クチバシちゃんじゃねえ。あたしは菓子だ」
その少女は何もかもを否定するような憎悪を込めた瞳でユカリを睨みつけた。
この少女にユカリが初めて会ったのは食堂でのことだ。パピに操られてやって来て、そしてパピから解放された。にもかかわらず、後々今度はクチバシちゃんに操作され、今に至る、はずだ。
ユカリは己の混乱を諫め、確認するように言う。「メアは、今あなたが操っている女の子の名前でしょ?」
メアは恥ずかしそうにもじもじしながら答える。「えっと、お人形遊びは得意なの。分からなかった?」
喋り方だけじゃなく、姿勢や目線の動かし方まで、確かにあの時、食堂の外で少し話したメア、だと思っていた人物のように見える。
「分からなかったよ。つまりパピからの操作を逃れた直後からずっとクチバシちゃんは、その子の体を操っていたというわけだね」
メアは悪戯を成功させた子供のように得意そうな微笑みを浮かべる。
「そういうこと」そしてメアは幼い顔立ちながら妖艶なる表情を作り、朗々と歌いたてる。「嗚呼、あれもまた月の眩き夜のこと。勇敢なる少女は屍の使者に恐れることなく進み出でて宣い給う。魔導書はここにあり、と。偉大なる軍勢を率いし、真正かつ情け深き我が君の恐ろしき腕に抱かれようと、哀れ孤独な少女は高き玉座に参じ給う」
その名は確かフェビタルテだ、とユカリは思い返す。屍の軍勢の屍の使者、彼女もまたメアの人形劇の登場人物だったというわけだ。
そうして再びメアは無邪気な子供に戻る。
「そうそう、ついでに言えばあんたはユーアと何度か話したつもりだろうけど、あれも全部あたし。あんたは一度としてユーアと言葉を交わしてない。あんたの言葉なんて聞きはしない」
思いのほか自分が傷ついていることにユカリは気づいた。しかし、ユーアと話していないなんてことはない。
「そんなことない。ワーズメーズからあと、何度も何度も話したよ。楽しいお喋りもしたし、喧嘩もした。何度も何度も沢山! ユーアともユーアともユーアともユーアとも話した。ユーアとだってこれから話すんだから」
さらに続けて言おうとした言葉は口に蓋でもされたように出てこなかった。視界の端でユーアが手を複雑に動かしていることに気づく。沈黙の魔法の魔導書に書いてあった手話の呪文だ。
ユーアともメアともグリュエーとも話せない。
ユカリが今使える魔法、言葉を使わない魔法は限られる。口笛の呪文の人形遣いの魔法、心の内に祈りを捧げる光の魔法、手話による沈黙の魔法。そして魔法少女の変身魔法。計四つだ。
その時、今までじっと佇んでいた女神の像の群れが瓦礫の山を登ってきた。
魔法少女ユカリは【祈りを捧げ】、迫る女神像の群れを天の光で一つ残らず焼き払う。不敬などと言ってはいられない。
突然ユーアが何かに気づいた様子で立ち上がり、メアを置いて呪いの女神の残骸を駆け降りていく。どこへ行くのか、その意図も読めないままにユカリはユーアを追う。
ユーアが走っていく先の野原に小さな何かがこちらへと引きずられるように近づいてくるのが見えた。それはクチバシちゃん人形だった。手のひらほどの大きさになった巨人像のケトラがクチバシちゃん人形を引っ張ってここまで運んできたのだった。ユーアは駆け寄り、膝をついてクチバシちゃん人形を抱きしめる。ケトラはユーアに寄りかかり、そのまま動かなくなった。
「はあ? 本気で言ってるのか?」と言ったのはクチバシちゃん人形だった。ユーアとクチバシちゃん人形は見つめ合い、しかしクチバシちゃん人形だけが声を出して喋る。「何を怒ってるんだよ。ここまでやっておいて、皆消えちまって、お前だけ、お前ばかり」
そこまで言ってクチバシちゃん人形は静まり、ユカリに背を向けたままユーアもまた押し黙っている。そのユーアの小さな背中に何か声をかけたかったが、あいかわらず魔法がユカリの喉の奥に詰め込まれて言葉が出てこない。その小さな体の内で喧嘩する少女たちの表情も見えないままに、ユカリはユーアの中の何かが変わったことを察した。
しばらくの沈黙の後「もういい」とユーアは言った。ユーアの口でそう言い、クチバシちゃん人形を放り捨てた。
その立ち居振る舞いからユカリは確信する。目の前にいるのはメアだ。
ユカリがクチバシちゃん人形を拾い上げると、クチバシちゃん人形はユカリにそっとしがみつく。ユカリもクチバシちゃん人形の中の少女の小さな手を握る。
天が割れ、すかさずユカリも【祈りを捧げる】。斜に差し込む光と光が相殺し、消滅する。無数の光が暗闇を切り裂き、寄せては返す波のように、夜は何度も払われて何度もやって来る。
いつの間にかメアの背後の呪いの乙女の瓦礫を乗り越えてくる無数の小さな影があった。ヘイヴィル市の子供たちだ。手に手に身の丈に合わない剣や槍を引きずってやってくる。
もう抗っていい。従わなくていい。ユカリは子供たちにそう伝えたかったが、喉を絞り出しても舌と唇をいくら酷使しても言葉は少しも出てこなかった。
絶望的な眼差しの子供たちはすすり泣きを漏らしながら迫る。対してメアは【手振り】で沈黙を御しながら、子供たちに紛れるように退いていく。ユカリもまた無意識に半歩退き、逃げるほかないと自覚する。ユカリは魔法少女の杖を固く握りしめる。
光を目くらましにして逃げるしかない。人形遣いの魔法を今からかけることはできない。打つ手が何もない。クチバシちゃん人形が震えている。その震えを抑えるようにユカリは人形の小さな手を握りしめる。
踵を返そうとしたその時、強い風が背中を押し、ユカリの心を吹き抜けた。迫りくる子供たちに立ち向かうように、メアを逃さないように追い風が吹いている。言葉が通じなくてもグリュエーはそこにいる。逃げるのではなく、進め、そう言っていた。
ユカリはグリュエーを信じて後ろに引こうとした足を戻し、杖を構え、クチバシちゃん人形を抱きしめる。そしてすすり泣く子供たちに向かって、追い風と共に走り出す。
風に怯んだ子供たちを突き飛ばし、剣を叩き落とす。ユカリの死角の子供たちは風に巻かれて転び、ユカリの行く先の子供たちが左右に押しのけられる。
杖を放り出して跳躍し、メアの元へひとっ飛びでたどり着く。ユカリはメアを地面に押し倒し、両手を捕まえ、抑えこむ。しばらくすると『言葉』が戻ってきた。
メアから解放され、唐突に自由を得て、子供たちは戸惑って、身動きがとれないでいるようだった。泣き叫び、父母の名を呼び、夜闇に怯えて助けを乞うている。
「もう自由だよ! みんな家族の元に帰って!」ユカリは叫ぶ。
その言葉が子供たち全てに響くのは少し時間がかかった。しかし一人が剣を放り捨てると、皆がそれに続き、子供たちは泣き叫び、何度も転び、手を取り合ってヘイヴィルの街へと走り去っていく。
ユカリはメアにのしかかったまま、その手を強く握る。
「人形遊びは終わりにしよう。メア」
メアはため息をつき、観念したように微笑んだ。「そうだな。これで最後だ」
月光が陰り、辺りが影に包まれる。メアではなくユーアの、畏怖と驚愕に見開いた目に気づき、ユカリは夜天を振り返る。
満天の星が陰っている。祈りの乙女が、女神の巨像が、その名に似つかわしくない激しい表情で二人を見下ろしていた。支えを失い、こちらへ倒れようとしている。
二人の他に人はいない。子供たちは皆すでに祈りの乙女の影から抜け出している。ユカリは【梟の鳴き真似で】変身し、ユーアを両足で掴むと色とりどりの輝きを放ちながら、巨像の影の外へ向かって飛翔する。
同時に人形遣いの魔法で祈りの乙女を支配下に置く。しかし勢いを殺すことはできず、もはや転倒は止められない。せめて時間を稼ごうと白大理石の両手を地面に突き出す。
その時、己の飛ぶ先に巨大な柱の如き両腕が地面に突き刺さった。己の失態を呪う暇もなく、かわしきれずに肩をぶつけ、ユカリは人の悲鳴を出してしまう。元の姿に戻り、地面に叩きつけられる。
まだ影の中だ。意識がまとまらない。ユーアに手を引かれ、ユカリは肩の痛みを堪えつつ、すぐに立ち上がる。もう一方の手でユーアの背中を押し、ふらつく体で前へ進む。
グリュエーが何事かを叫び、二人の体を吹き飛ばす。二人は地面を転がり、一気に進むがまだ月光には届かない。地面に伏せたがために風が素通りしてしまう。グリュエーの嘆きが聞こえる。
その時、何者かが月光から影の中へ進み出て、大きな手と太い腕でユカリとユーアを軽々と抱え、影の外へ突き飛ばした。
「じゃあな」
その一言を遺して、ユカリの命の恩人は祈りの乙女に圧し潰された。
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