新学期初日。
高校3年生となった春の朝、元貴はいつもより少し早く教室に足を踏み入れた。
すでに何人かのクラスメイトが集まり、
新しい担任の話題で盛り上がっている。
「なんか、今年の数学の先生、若くてイケメンらしいよ」
「しかも新任なんでしょ? 女子、絶対騒ぐじゃん」
そんな言葉を聞きながら、
元貴は、ふうん、と無関心を装って鞄を置いた。
別に、教師が誰であろうと、授業が面白ければそれでいい。
――そう思っていた。
その“声”を聞くまでは。
「着席」
教室に入ってきた長身の男が、低く一言発した。
その瞬間、空気が変わった気がした。
茶色がかった柔らかそうな髪と、鋭くも優しげな目元。
教師にしてはラフすぎるシャツの袖まくりが、やけに目につく。
指先が、細くて長くて、美しい。
そしてどこか運動部出身の雰囲気をまとっている。
「若井滉斗(わかい ひろと)。今日からお前らの担任で、数学とサッカー部の顧問を担当する。よろしく」
そう言って、若井は黒板に名前を書く。
その一連の動作を、元貴はただ、目で追っていた。
「え、サッカー部?」
「かっこよくない? 先生、若そうだよね」
女子がざわつく中、元貴はぼんやりと前に立つ先生を見ていた。
「大森、そこは因数分解じゃなくて、式変形だ。見ろ、ここ」
数日後。
黒板の前で説明する若井の手が、自分のノートへと伸びてきた。
近い。
指が、自分のペンの先に重なる。
「この書き方だと、途中式が飛んでる。だから伝わらない。見てろ、こうやって……」
(……なんで。先生の声、こんなに……低くて、心地いい)
耳元で低く響く説明に、体温がじんわりと上がっていく。
「わかりました……ありがとうございます」
その瞬間だけ、先生が少しだけ微笑んだ気がして――
それを見た元貴の心臓が、一瞬だけ跳ねた。
その日の放課後。
校庭のサッカーゴール前で、部活見学をしていた元貴は、生徒とボールを蹴る若井の姿を目にする。
「おお〜、先生マジで上手いじゃん!」
「え、プロとか目指してたんすか?」
「いや、学生時代は本気だったけどな……今は、生徒に教える方が楽しいよ」
笑顔で答える若井の表情は、どこまでもまっすぐだった。
元貴はその笑顔に、少しだけ胸が熱くなるのを感じた。
その時、ふと校舎の2階から視線を感じて見上げると——
音楽室の窓から、涼しげな笑顔でこちらを見つめる音楽教師、藤澤涼架の姿があった。
「……見てたのかな」
笑っているようで、どこか目が笑っていない気がして、元貴は小さく身震いする。
はじまったばかりの三人の物語は、この日、静かに動き始めた。
コメント
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初コメ失礼します…!今回のお話も楽しみにしています!!☺️✨️