テラーノベル
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#ミニ知識
なつほ
太宰♀さんのドヤ顔が見たい。「むふーっ」って感じなのかな。ドヤデレいいよね。
ただでさえノベルは読むだけで疲れるのにいつも読みにきてくれてありがとうございます。
顔も素性も知らない人に言われても迷惑でしょうが、感謝の意しかないです
最終話です。
探偵社の入っている古めかしいビルの前で、黒い高級車が静かに停車した。 助手席から降りた太宰は、朝日を反射するガラス扉を仰ぎ見て、それから運転席の中也へと向き直る。彼女の焦茶色のゆるふわな髪が、朝の柔らかな風にさらりと揺れた。
「送ってくれてありがとう、中也。おかげで、国木田君に説教を食らわずに済みそうだよ。じゃあね!」
太宰はいつもの軽やかな足取りで、ひらひらと手を振りながら立ち去ろうとした。しかし、その細い手首が、力強い熱を帯びた手に掴み止められる。
「え?」
太宰が驚いて振り返った、その瞬間だった。 中也が車から身を乗り出すようにして、彼女の顔を引き寄せた。視界が急激に狭まり、琥珀色の瞳が驚愕に見開かれる。次の瞬間、唇に柔らかく、けれど有無を言わせない確かな弾力が押し当てられた。 心臓が跳ね上がる音が、耳の奥で爆発するように響く。 不意打ちのキスは、ほんの数秒のことだったはずなのに、太宰にとっては永遠に近い停滞を感じさせた。中也の纏う革ジャンの匂いと、微かな煙草の香りが鼻腔をくすぐり、脳内が真っ白に塗りつぶされる。
「……!? っ、???」
唇が離れたあとも、太宰は言葉を失ったまま、パクパクと口を動かすことしかできなかった。雪のような白い肌が、耳の付け根まで一気に熱を帯び、鮮やかな朱色に染まっていく。
「……。じゃ、またな」
中也は満足げに、しかし少しだけ照れ臭そうに口角を上げると、動揺する彼女を置き去りにしてアクセルを踏み込んだ。低く唸るエンジン音が遠ざかり、高級車が街角に消えていくのを、太宰はただ呆然と見送るしかなかった。
「ふぇぇ……っ、何……、何なんだい、もう……」
普段の彼女からは想像もつかないような、情けない声が漏れる。太宰は両手で熱を持った頬を挟み込み、熱を逃がそうとするようにぶんぶんと首を振った。誰も見ていないはずの早朝の路上で、彼女はしばらくの間、混乱した頭を抱えて立ち尽くしていた。 ようやく足元が覚束ないままビルの階段を上がり、探偵社の扉を開ける。 昨夜、最後に出たときと同じ静寂がそこにはあった。結局、誰よりも遅く帰り、誰よりも早く出社してしまったことになる。彼女は自分のデスクに辿り着くと、崩れ落ちるように椅子に腰掛けた。
「……心臓に悪い。あのチビ、後で絶対に、呪いのビデオでも送りつけてやる……」
そう毒づきながらも、指先でそっと唇に触れる。まだそこに、彼の熱が残っているような気がして、再び顔が熱くなるのを感じた。
太宰は無理やり気分を切り替えるように、デスクの引き出しの奥から隠しておいたお菓子の袋を取り出した。昨夜は夕食も食べていないし、今朝もろくに口にしていない。カリカリと小気味よい音を立てるクッキーを齧りながら、彼女は昨夜、深夜三時までかかって完成させた報告書を手元に引き寄せた。
眠気と疲労の中で書き上げたものだ。天才的な彼女であっても、一箇所くらいは誤字や見落としがあるかもしれない。琥珀色の瞳を再び鋭く研ぎ澄ませ、彼女は自分の綴った文字の羅列を追い始めた。 カリカリ、サクサクとお菓子を食べる音だけが、事務所に響く。 文字を追ううちに、彼女の意識は再び仕事のモードへと深く沈み込んでいった。中也とのキスの衝撃は、脳の隅に大切に(あるいは厄介な荷物として)仕舞い込まれ、彼女はいつもの「武装探偵社の太宰治」へと戻っていく。
完璧だ。 何度読み返しても、ロジックに破綻はなく、証拠の提示もこれ以上ないほど鮮やか。これなら、あの口うるさい国木田君も、ぐうの音も出ないはずだ。 太宰は満足げに鼻を鳴らし、最後の一枚を確認し終えた。
それから三十分ほど経った頃だろうか。 ガチャリ、と扉が開く音がした。 足音だけで誰か分かる。規則正しく、一歩の歩幅が計算し尽くされたようなそのリズム。国木田独歩だ。
「……、え?」
事務所に入ってきた国木田が、入り口で凍りついたように静止した。 彼は眼鏡を中指で押し上げ、一度目を閉じ、そしてもう一度大きく開いて、窓際の席に座る人物を確認した。
「だ、太宰……? 貴様、なぜここにいる。いや、なぜこの時間に、既にデスクについているんだ!?」
国木田の声が、驚きのあまり裏返っている。 太宰は、口元に残っていたクッキーの屑を指で払い、ふふんと鼻を鳴らした。胸を張り、少しだけ顎を上げて、これ以上ないほど得意げな表情を作ってみせる。
「むふーっ! おや、国木田君。おはよう。君こそ、今日は少し来るのが遅いんじゃないかい? 私はもう、昨日頼まれたレポートの見直しも、今日の予定の確認も、すべて終えてしまったよ」
「……貴様、本当に太宰か? 偽物ではないだろうな。それとも、よほど毒性の強い茸でも食べたのか!」
「失礼な。私はいつだって、やればできる子なんだよ。ほら、これが昨日のレポート。ミス一つない、完璧な仕上がりさ」
太宰は自信満々に、厚みのある書類の束を国木田の前に差し出した。 国木田は半信半疑のままそれを受け取り、パラパラと中身を確認し始める。頁をめくるごとに、彼の眉間の皺が深まり、同時に驚愕の色が強くなっていく。
「……。信じられん。……ミスがないどころか、俺が気づかなかった細部の矛盾まで修正されている……」
「むふふーっ。もっと褒めてくれてもいいんだよ、国木田君。なんなら、私のための『理想の残業免除証』でも発行してくれて構わない」 「調子に乗るな、唐変木! ……だが、まあ。……よくやった、と言っておこう」
国木田が珍しく(本当に珍しく)素直な言葉を口にした。太宰は椅子の上で足をぶらぶらさせながら、勝利の美酒ならぬ勝利の緑茶を啜った。
それから間もなく、事務所の扉が次々と開いた。
「おはようございます、国木田さん! ……えっ、太宰さん!? お、起きてる……!?」
最初に来た敦が、腰を抜かさんばかりに驚き、続いて入ってきた鏡花も、静かに目を丸くして立ち止まった。
「……太宰さん。……早い。……雪が降る?」
「ひどいなあ、鏡花ちゃんまで! 私はただ、あまりに気分が良かったから、朝日と共に目覚めてしまっただけだよ」
太宰は鏡花にふわりと微笑みかけた。
「おはよう、太宰。あんた、朝からそんなに飛ばして、夜までに燃料切れを起こさないかい?」
与謝野が白衣を翻しながら、面白そうに彼女を覗き込む。
「与謝野先生。大丈夫だよ、今の私は、どんなに働いても疲れない無敵の状態なんだ」
「へえ? 何かいいことでもあったのかい」
その鋭い問いに、太宰の脳裏に一瞬だけ、ビルの下でのあの熱いキスの感覚が蘇った。
「っ、べ、別に! 何もないですよ、本当に何もないんです!」
急激に動揺して、顔を真っ赤にしながら書類に顔を伏せる太宰。
その様子を見たナオミが、「あらあら、これは何かありますわね……」と谷崎を突いて楽しそうに囁いている。
探偵社に、いつもの賑やかさが戻ってきた。 電話が鳴り響き、国木田の叱咤が飛び、敦が慌ただしく走り回る。 太宰は、騒がしい社内の空気の中に身を置きながら、再びペンを手に取った。 一人で深夜まで残っていたときの静寂も、悪くはなかった。けれど、こうして仲間の声に囲まれている方が、この「女」になった身体の、どこか不安定な心が落ち着くのを彼女は知っている。 そして、まだ微かに唇に残っている感触が、彼女の胸の奥で、小さく、けれど確かな火となって、今日という一日を支えてくれていた。
誰よりも遅く帰り、誰よりも早く来た。 そんな奇妙な一日の始まりは、彼女にとって、忘れられないほど人間臭く、そして温かな、武装探偵社の日常の一部へと溶けていった。
「……さて。じゃあ、今日の仕事も、適当に真面目に頑張ろうかな」
太宰は窓の外の澄み渡った青空を見上げ、ふわりと、今度は自分自身のために、優しく微笑んだ。 ヨコハマの風が、彼女の焦茶色の髪を、祝福するように軽やかに揺らしていた。
午後の探偵社。窓から差し込む陽光が、太宰のデスクに置かれた色とりどりの菓子折りを照らしていた。 今回の依頼主は、ヨコハマでも有数の名士である初老の女性だった。愛猫の行方不明という、一見すれば平和な相談ではあったが、彼女が太宰を指名したのは、その「たおやかな美貌と、聡明な雰囲気」に一目惚れしたからだという。
太宰は今、その依頼主の正面に座り、まるで孫娘が祖母に接するかのような、至極真っ当で、かつ温かみのある微笑みを湛えていた。
「――まあ、それはそれは、可愛らしい猫ちゃんなのですね。銀灰色の毛並みに、エメラルドの瞳……。想像しただけで、私の胸も締め付けられるようです」
太宰の声は、普段の飄々とした響きを完全に消し去り、どこまでも優しく、相手の痛みに寄り添うような慈愛に満ちていた。焦茶色の長い髪を耳にかけ、琥珀色の瞳をわずかに潤ませるその姿は、一分の隙もない「心優しい女性探偵」そのものだった。
「そうなのよ。あの子がいないと、私の夜はあまりに寒くて……。太宰さん、貴女なら私の気持ちを分かってくださるでしょう?」
「ええ、もちろんです。寂しさは、時にどんな毒よりも人を蝕みますから。安心してください、私が必ず、あの子を貴女の腕の中にお返ししますよ」
太宰はそっと、依頼主の皺の刻まれた手に、包帯の巻かれた自分の手を重ねた。その所作には一片の迷いもなく、触れられた女性は感激したように何度も頷いている。
その様子を遠巻きに眺めていた国木田は、手帳にペンを走らせる手を止め、眉間に深い皺を刻んだ。
「……、おい、敦。あいつ、さっきまで俺のペンケースに接着剤を流し込んでいただろう。あの顔はなんだ。あんな聖母のような微笑みを浮かべて、魂をどこに売ってきたんだ」
「あはは……。太宰さんの『営業モード』は、本当に誰にも真似できませんよね……」
敦は乾いた笑いを浮かべるしかない。太宰はナルシストではないし、自分の容姿を自慢するようなことは決してしないが、それが「任務」に役立つツールであるならば、呼吸をするように使いこなす。自分の美しさを客観的な武器としてのみ認識し、それを使って相手の懐に滑り込む。その徹底した「自己の記号化」こそが、彼女の恐ろしさでもあった。
一時間後、依頼主はすっかり太宰の信奉者となり、手厚い謝礼の約束と共に、晴れやかな顔で帰っていった。 扉が閉まった瞬間。 太宰は、ふっと顔から「光」を消した。椅子に深くもたれかかり、大きく溜息をついて、トレンチコートの襟を緩める。
「あァ、疲れた。善人を演じるのは、入水するよりもエネルギーを使うね。国木田君、お茶を。とびきり苦いやつを頼むよ」
「貴様という奴は……。あんなに感謝されて、少しは良心が痛まないのか」
「良心? そんなもの、ポートマフィアの地下倉庫に置いてきたよ。……さて、敦君。猫の居場所はもう特定できている。近所の野良猫のネットワークを辿れば、三十分で見つかるだろう。あとの実務は任せたよ」
太宰は机に突っ伏し、焦茶色の髪を乱雑に広げた。彼女にとって、あのにこやかな時間は、パズルを解くための「手順」の一つに過ぎない。けれど、机に伏せたまま閉じた瞳の裏には、先ほどの依頼主が漏らした「寂しさ」という言葉が、不快な残響として残っていた。 寂しさ。 それは、彼女がどれほど美しく装おうとも、どれほど冷徹に振る舞おうとも、決して身体から剥がれ落ちることのない、自分自身の核にあるものだ。
そんな思考を遮るように、ポケットの中でスマートフォンが震えた。 画面を確認すると、中也から一枚の画像が届いている。 そこには、どこかのお洒落なバーのカウンターに置かれた、ヴィンテージもののワインボトルの写真があった。 『仕事終わったか。いいもんが入ったぞ、クソ鯖。早く来ねえと俺が全部空けるからな』 太宰は、さっきまで浮かべていた「営業用の微笑」とは全く違う、どこか呆れたような、けれど微かに熱を帯びた、歪な笑みを浮かべた。
「……全く。あのチビは、私が『寂しい』なんて感傷に浸る時間すら奪うのが得意だね」
彼女はゆっくりと立ち上がり、砂色のトレンチコートの襟を正した。 鏡は見ない。自分の顔が今、どんなに人間臭い表情をしているか、知る必要はないからだ。 「国木田君、私は猫の調査に行ってくるよ。……ああ、帰りは直帰するからね」
「おい待て太宰! さっき敦に任せたと言ったばかりだろうが!」 国木田の怒声が背中に飛ぶが、太宰はひらひらと手を振って、軽やかな足取りで事務所を出た。 依頼主に見せたあの優雅な淑女の足取りではなく、ただ一人の、愛する男のもとへ急ぐ女の足取りで。
ヨコハマの街に、夕暮れの色が落ちていく。 太宰は、冷たい潮風を頬に受けながら、雑踏の中を歩き出した。 美しい仮面を使い分け、嘘と誠の間を泳ぎ回る。それが彼女の生き方だ。 けれど、あの乱暴で熱い男の前でだけは、どんな仮面も意味をなさない。 彼女はスマートフォンの画面を消し、夕陽に染まる海を見つめた。 心臓の鼓動が、昨日よりも少しだけ、確かにそこにあることを感じながら。
ヨコハマを包み込む午後の陽光は、潮風を含んでわずかに湿っていた。太宰は依頼主から聞き出した「愛猫がいそうな路地裏」の目星をつけると、国木田の小言が届かない距離まで離れたことを確認し、大きく伸びをした。砂色のトレンチコートが、彼女のしなやかな肢体の動きに合わせてふわりと踊る。
「さて、猫探しという名目の散歩に出かけようかな。あわよくば、そのまま人生の終着駅行きのバスでも見つかれば最高なのだけれど」
彼女は独り言を呟きながら、レンガ造りの建物が並ぶ裏通りへと足を踏み入れた。焦茶色の長い髪が、歩くたびに背中で軽やかに弾ける。彼女はナルシストではないが、道ゆく人々が時折、その目を引く美貌に足を止めることには気づいていた。けれど彼女にとってそれは、任務を円滑に進めるための「都合のいい記号」以上の意味を持たない。
路地を曲がり、赤レンガの影に入ったときだった。 前方から、聞き慣れた、そして今朝の記憶を嫌というほど呼び覚ます足音が近づいてきた。 コツ、コツ、と一定のリズムで石畳を叩く、小気味よいヒールの音。
「……げっ」
太宰は思わず、声に出して漏らしていた。 そこに立っていたのは、黒い帽子を深く被り、不機嫌そうな眉間に皺を寄せた小柄な男――中原中也だった。彼は手にしたスマートフォンから視線を上げると、前方で凍りついている太宰の姿を捉え、意外そうに片眉を上げた。
「あァ? なんだ、手前。こんなところで油売ってんのか、クソ鯖」
「……中也。奇遇だね。君のような不吉な男にこんな時間に会うなんて、今日の運勢はマイナス百点だ」
太宰は平静を装って軽口を叩いたが、視線が彼と重なった瞬間、脳裏には今朝のビル前での出来事が鮮明にフラッシュバックした。唇に残っていた、あの熱い感触。強引で、けれど有無を言わせない確かな愛着の証。 熱が、耳の付け根からじわじわと顔全体に広がっていくのが自分でも分かった。彼女は慌ててトレンチコートの襟を立て、視線を逸らす。
「なんだ、その顔は。熱でもあんのか」
「君の存在そのものが私の神経を逆撫でして、体温を異常上昇させているだけだよ。それより、マフィアの幹部様がこんな路地裏で何をしているんだい? 迷子の野良犬の世話かな?」
「るせえ。取引相手がこの先の店を指定してきやがったんだよ。……手前こそ、その格好で何してやがる。また入水スポットの開拓か」
「失礼な。私は今、由緒正しき依頼主の愛猫を探しているんだ。銀灰色の毛並みに、エメラルドの瞳。君には一生縁のないような、上品で美しい生き物だよ」
太宰は努めて飄々と、事務的な雑談に持ち込もうとした。中也は「ふん」と鼻を鳴らし、ポケットから煙草を取り出して火をつけた。
「猫だと? 手前に懐くような殊勝な生き物がいるとは思えねえがな。せいぜい噛まれて終わるのが関の山だろ」
「おや、君こそ、その帽子に猫の毛をつけて帰ったら、部下たちに笑われるんじゃないかい? 『中原幹部は実は猫派だった!』なんて新聞に載ったら、マフィアの威信はボロボロだ」
「んなわけねえだろ。……おい、太宰。飯は食ったのか」
不意に投げかけられた言葉に、太宰は毒気を抜かれたように瞬きをした。
「……食べてないよ。仕事が忙しかったからね」
「だろうな。手前は放っておくとすぐに霞でも食って死のうとする。今夜、美味いワインを開けるって言っただろ。それまでに、少しは胃に何か入れとけ」
中也の声はぶっきらぼうだったが、そこには確かな「相思相愛」の恋人としての温度があった。太宰は彼が吐き出した煙を追いかけるように空を見上げ、それから自分の左手首に巻かれた腕時計を確認した。針は、午後の勤務時間が半分を過ぎたことを示している。
「おっと……そろそろ戻らなくちゃね。国木田君が私の名前を叫びすぎて、喉を潰してしまう前に」
「あァ。とっとと行けよ、仕事熱心な探偵さんよ」
太宰は「じゃあね」と短く告げ、中也の横を通り過ぎようとした。今朝のことがあったから、できるだけ距離を保って、速やかに離脱しようとしたのだ。 けれど、運命の女神――あるいは執着心の強い元相棒――は、それを許さなかった。
すれ違いざま。 太宰の細い二の腕を、中也の強靭な指先が捕らえた。
「……っ!?」
太宰が振り向くよりも早く、彼女の視界は漆黒の帽子で塞がれた。 再び、唇に柔らかい圧力がかかる。今朝よりも少し深く、執拗な、けれどどこまでも熱い接吻。 太宰は心臓が口から飛び出すかと思った。路地裏の静寂の中で、互いの吐息が重なり、混ざり合う。彼女の手が中也の肩を押し返そうとしたが、彼はそれを意に介さず、離れ際に、あろうことか太宰の震える下唇を、ペロッと熱い舌先で舐め上げた。
「――っ、は!? え……っ!?」
太宰は唇を抑え、魚のように口をパクパクとさせてフリーズした。琥珀色の瞳は極限まで見開かれ、顔面は今や熟した林檎よりも真っ赤に染まっている。そんな彼女の動揺を愉しむように、中也はニヤリと、最悪に魅力的な笑みを浮かべた。
「いってらっしゃいのちゅー、な。クソ鯖。仕事、頑張れよ」
中也はそう言い捨てると、何事もなかったかのように悠然と歩き出した。背中でひらひらと手を振るその姿は、あまりにも余裕に満ちていて、太宰のプライドを完膚なきまでに叩き潰した。
「……中也の……、中也のばかーーー!!」
ようやく声が出たとき、それは路地裏の猫たちを飛び上がらせるほどの絶叫だった。
「ちび! ニコ中! 飲んだくれ! 蛞蝓! 重力使いの単細胞!! 帽子置き場!!」
太宰はありったけの罵倒を投げつけながら、真っ赤な顔のまま猛烈な勢いで路地を駆け抜けていった。その背中は、もはや「探偵社のクールな才女」の面影など微塵もなく、ただ恋人に翻弄されてパニックになった、等身大の、人間臭い女性のそれだった。
中也は彼女の叫び声を背中で聞きながら、立ち止まって再び煙草を深く吸い込んだ。
「……元気なこった。あんな大声出せるなら、まだ大丈夫だな」
彼はやれやれと肩をすくめると、消えていく彼女の足音を愛おしそうに聞き届け、再び自分の「仕事」へと戻っていった。
夕暮れが近づくヨコハマ。 太宰は探偵社に戻る道すがら、何度も何度も唇を拭ったが、そこに刻み込まれた熱だけは、どうしても消し去ることができなかった。
_おまけ_
ヨコハマの裏路地には、まだ湿った潮の香りが色濃く停滞していた。中原中也は、角を曲がって猛スピードで走り去っていった砂色のコートの背中を見送り、ふっと短く、満足げな吐息を漏らした。
「……たく。あんなに全力で走れる体力が残ってんなら、仕事も余裕だろうが」
彼は口元に残っていた、微かな煙草の苦味と、それ以上に鮮烈に残る「女」の柔らかな熱を思い出しながら、消えかかった煙草を携帯灰皿に押し付けた。 太宰治。 かつての相棒であり、今は別の組織に身を置く恋人。男であっても女であっても、あのクソ鯖の本質が「最悪の性格をした天才」であることに変わりはない。だが、先天的に女性としてこの世に生を受けた彼女は、時折、本人が無自覚なところで、どうしようもなく脆い「隙」を見せることがある。
今朝、探偵社のビルの前で見せたあの顔がそうだった。 昨夜、連絡もなしに放置されたことへの怒りは、確かにあった。一時間以上も冷たい潮風に吹かれながら待ちぼうけを食らわされれば、誰だって腹を立てる。だが、ようやく繋がった電話越しに聞いたあの掠れた、ひどく疲弊した声を聞いた瞬間、怒りよりも先に「ああ、また限界まで自分を削りやがったな」という、胸を締め付けられるような苛立ちに近い安慮が勝ってしまった。
だからこそ、朝の別れ際、自分を繋ぎ止める鎖を刻みつけるように口づけた。 そして今さっき、偶然を装って(実際には彼女が立ち寄りそうな路地を幾つか予測して歩いていたのだが)再会したときも、彼女の琥珀色の瞳の奥には、まだ隠しきれない疲労の色が澱んでいた。
「仕事、仕事、仕事……。あいつはいつから、あんなに真面目に働く人間になったんだよ」
中也は帽子を深く被り直し、再び歩き出した。 周囲から見れば、彼はマフィアの冷酷な幹部であり、重力を操る「汚れつちまつた悲しみに」の体現者だ。しかし、太宰の前でだけは、その鎧にヒビが入る。彼女の、折れそうなほど細い手首や、自分を見上げる際に見せる琥珀色の瞳の揺らぎ。それらが、彼の独占欲を、そして守りたいという本能を、暴力的なまでに掻き立てる。
彼女はナルシストではない。それどころか、自分の美しさが他人にどんな影響を与えるかにすら、無関心を装っている。今朝も今さっきも、顔を真っ赤にしてパニックになっていたが、あれは彼女の計算高い脳味噌が追いつかなかった結果の、純粋な反応だ。 普段、誰よりも先を読み、他人を掌の上で転がしているあの女が、自分の腕の中だけで、言葉を失い、ただの「一人の女」として狼狽える。 その事実が、中也にとってはどんなヴィンテージワインよりも深く、甘く、彼の神経を酔わせた。
「……ニコ中、飲んだくれ、蛞蝓、か。相変わらず語彙が貧相なんだよ、手前は」
路地に響く自分の足音を聞きながら、中也はふっと独り言を溢した。 彼女が投げつけた罵倒の数々を思い出し、口角が自然と上がる。あんなに必死になって逃げていったあいつは、今頃、探偵社の自分の席で、まだ唇を真っ赤にしてフリーズしていることだろう。あるいは、国木田とかいう真面目腐った相棒に、八つ当たりでもしているかもしれない。
中也はスマートフォンの画面を点灯させた。 背景には、いつか無理やり撮った、不機嫌そうな顔をしてこちらを睨む太宰の写真。
「……待ってろよ、クソ鯖。今夜は、その回らない口を別の意味で忙しくしてやるからな」
彼は、次に彼女を抱きしめたときに、どんな顔をさせるかを想像した。 女性特有のしなやかな肢体。包帯の下に隠された、熱を持った肌。そして、自分を呼ぶときの、あのもどかしそうな、けれど熱を帯びた声。 相思相愛、などという言葉で括るには、あまりに歪で、暴力的なまでの愛。 中也は、目的地である取引現場のビルを仰ぎ見た。
一刻も早く、仕事を終わらせる。 その後の時間は、すべて、あの厄介で愛おしい女を、自分の重力で縛り付けるために使うつもりだった。
「……さあて。ちゃっちゃと片付けて、美味い酒でも買い足しに行くか」
中也の足取りは、先ほどよりもわずかに軽やかだった。 ヨコハマの街に、夕刻を告げるチャイムが遠く響く。 彼は、愛する女をもう一度「泣かせてやる」ための策略を練りながら、マフィアの重鎮としての冷徹な仮面を再び被り、闇の中へと消えていった。
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