テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
靴箱へ向かう廊下。夕暮れの色がガラス越しに伸びて、床を斜めに染めていた。
遥はうつむいて歩いていた。
昼間の“恋人ごっこ”のざわめきが、まだ耳の奥にこびりついている。
あの視線。あの反応。あの“信じたくないけど信じさせられた”ような、微妙な空気。
──成功した。
ちゃんと“見せられた”。
なのに、胸の奥は苦い。
「……あれ、演技か?」
静かな声が、背後から届いた。
心臓が跳ねた。
振り返らなくても、誰の声かはわかっていた。
「……何が」
答える声が、ひどく掠れていた。
自分で聞いても情けなくなるほどに。
日下部が、数歩後ろで立ち止まっていた。
表情は読めない。けれど、遥の目を逸らさず、まっすぐに見ている。
「別に、信じろなんて言ってないけど。──あれ、“おまえ”じゃなかったろ」
その言葉に、遥は笑った。
「“おれ”がどうかなんて、おまえにわかんの?」
「わかんねぇよ。でも、あれは──苦しそうだった」
喉の奥で、何かが詰まった。
──何を見てたんだ、こいつは。
「じゃあ、どうしたらよかったんだよ」
遥の声が、少しだけ震えた。
「“何もされない”まま、また一人でぶっ壊れてくのを見せときゃ満足かよ」
日下部は何も言わなかった。
ただ、その沈黙が、遥のなかの何かを逆撫でた。
「何がしたいわけ? 庇いたいの? かわいそうだって思ってんの?」
「違う」
即答だった。
「じゃあ──なんだよ」
遥は一歩、日下部に近づいた。
怒っていたわけじゃない。ただ、どうしても聞きたかった。
「おまえさ、俺に“期待”してる?」
日下部は、少しだけ目を伏せた。
「……期待、っていうか。……おまえが、ああやって嘘つくの、嫌なんだよ」
「は?」
「演技するのも、誰かのために壊れるのも──それ、“誰かのため”になってねぇし」
遥は乾いた笑いを漏らした。
「……おまえには、関係ないだろ」
「そうかもな。でも、……おまえが、ひとりで勝手に“終わらせようとする”のは、見てらんねぇよ」
遥は、何も言えなかった。
口を開いたまま、言葉が出てこなかった。
その沈黙を破ったのは、日下部ではなかった。
「──へぇ。おまえ、そういうキャラだっけ?」
後ろから、蓮司の声がした。
振り返ると、廊下の奥に立っていた。
いつからいたのか、どこから聞いてたのか──それを遥は問わなかった。
「……おまえ、あんま、そういうの似合わないよ」
蓮司は、遥を見た。
けれど、その目は、日下部にだけ鋭く向けられていた。
「こいつ、すぐ期待する。裏切られるのに」
「蓮司……」
遥が言う前に、蓮司が言った。
「でも、裏切られるのが好きなヤツもいるじゃん? なあ、“遥”」
遥は、何も言わなかった。
ただ──わずかに、目を伏せた。
日下部は、そんなふたりの間に一歩だけ入った。
「……裏切るつもりなんか、ねぇよ」
蓮司がくすりと笑う。
「へぇ。じゃあ、どんなつもりだよ」
答えは返ってこなかった。
そのまま、しばらくの沈黙が流れる。
最後に口を開いたのは、遥だった。
「……俺のことなんか、誰もちゃんと見てねぇよ」
静かに、でもはっきりと。
その声だけが、真っすぐだった。
「見てるフリして、好き勝手に言って、勝手に期待して、勝手に失望すんだろ。──それなら最初から全部嘘でいい」
そう言い残して、遥は背を向けた。
足早に廊下を歩いていく。
けれど、その背中は、ほんの少しだけ──震えていた。