高い湿度がねっとりと絡み付き、蝉の|劈《つんざ》く声が暑さを呼び、不快感を増長させていた。
都内郊外の新興住宅地の一角にある3LDK一軒家。
開け放たれた窓からは、猫の額ほどの小さな庭が見える。
庭先にあるプランターに植えられた紫や白のサフィニアが、太陽に顔を向け咲き乱れていた。
「ふぅ~。今日も暑い」
首から掛けたタオルで、佐藤沙羅は頬を伝う汗を拭い、洗い上がった洗濯物にアイロンをあて始めた。
娘のハンカチ、自分のブラウス、そして、夫のYシャツやハンカチ。特に夫のYシャツには、細かく気を使い、ピンと張りのある状態に仕上げる。
家族を支えてくれる大切な夫のために、アイロン掛けは欠かせ無い作業だ。
夫である政志は、今年38歳。アラフォーだが、ビシッと決めたスーツ姿はスマートな印象で、年齢よりも若く見える。住宅メーカーHanaHomeの営業職で、同期の中でもいち早く課長に昇進したエリートだ。結婚して13年、ラブラブとまではいかないが、そこそこ仲良くやってる。
アイロンに集中している間にも、額に汗が浮かぶ。
扇風機の風は、熱気をかき混ぜているだけで、役に立っているとは思え無かった。でも、無いよりはマシだ。
髪を後ろで結び、Tシャツにオシャレモンペの楽な服、おまけに首からタオルを下げた姿の35歳はオバサンまっしぐらで、沙羅自身も女としてどうかと思ってしまう。
でも、節約のために、自分ひとりのときは、エアコンを切っている。だから、楽な服装で無ければアイロン掛けなんて、とてもじゃないがやってられない。
「少しでも節約して、来年には家族で沖縄旅行よ」
愛する夫の政志と、12歳になる可愛い娘の美幸、家族3人で、小さな幸せを積み上げていく暮らしを専業主婦である紗羅は大切にしていた。
その幸せに影が落ちるとは、この時は、考えたことなど無かった。
サイドボードの上にある固定電話の着信音が鳴り出した。
普段、忘れ去られた存在が、自己主張をするようにジリリン、ジリリンとうるさく響く。
紗羅は憂鬱な気持ちで、アイロンのスイッチを切り、固定電話の受話器を持ち上げた。
「もしもし?」
家族それぞれが携帯電話を所有している。
最近、固定電話に掛かってくるのは、セールスか親類の冠婚葬祭の連絡。
それと、無言電話だ。
安全のため、紗羅は自分からは名乗らずにいた。
電話の向こうの相手は、今日もだんまりを決め込み、ムダな時間だけが、じりじりと過ぎて行く。
得体の知れない相手にいらだちを募らせ、ガシャンと乱暴に受話器を置いた。
「いやだな。文句があるなら、はっきり言ってくれればいいのに」
固定電話なんてあまり使わないからと、導入時にナンバーディスプレイのオプション料金を ケチったのを今さら後悔してしまう。
無言電話が始まったのは、 一週間ぐらい前だ。
最初は、間違い電話で「すみません」の一言もなく切ってしまったのかと思っていた。
けれど、一日のうちに二度三度と繰り返されれば、否が応でも嫌がらせ行為だと認識出来る。
ただ、何故、無言電話をしてくるのか、紗羅には皆目見当もつかない。
知らない間にママ友から恨みでも買ってしまったのだろうか。それとも、何か他に原因があるのだろうか。
思いを巡らせても答えなど見つからず、不安だけが心に積もっていく。
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