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「奇跡さん、僕を拐って」
僕の言葉に、あの人は当然頷かなかった。代わりに、首をふることもなかった。
僕はその日から、家に帰らなくなった。
あの人はいつでも神社にいるわけではないようだった。どうやら僕が訪ねてくる時間に合わせて来ていたらしい。ふらりといなくなっては、ご飯とか、毛布とか、とにかく色々、どこからか持って帰ってきた。
僕が寝る時はいつでも隣で眠ってくれた。あの人は悪魔だけど、でも、その手は僕の知る誰よりも温かかった。
人生で一番幸せな日々だった。
でもその日々は、当然といえば当然の話だが、すぐに瓦解してしまった。
ある日の正午頃、僕が山を散策していた時。遠くに足音が……ずかずかと、無遠慮で下品な足音が聞こえたあの時、幸せにヒビが入った。 その足音はまかり間違ってもあの人のものではなかった。あの人はいつでも、花畑の上を進むように歩くから。
そっとそちらを窺うと、警察服の若い男が三人、歩いているのが草の合間から見えた。
ああ、あれは僕を探しているのだ。
すぐに悟った。
いくらあの親でも、流石に息子が居なくなれば手を打たざるを得ない。わかっていたことだった。わかっていたけれど。
途端、怖くなってしまった。
僕は必死であの人の下へ走った。何度も足をもつれさせて、その度体に傷をつけながら。奇跡さん、奇跡さん、と口の中で呪文のようにつぶやきながら。
あの人はいつものように階段に腰掛けていた。隣には2つおにぎりが置いてある。今日のお昼だろう。そこには昨日と変わらない時間が流れていた。
「奇跡、さん、」
息を切らして呼びかけると、あの人がこちらを向く。そして少し目を見開いて、僕の近くに歩いてくる。あの人に触れられた頬が引っ張られるように痛んだ。さっき走っている時に顔も切っていたらしい。
「……痛っ」
ぱっ、とあの人が手を引いた。それが猫の様で、思わずふふと笑ってしまった。あの人の両手をとって、自分の両頬に当てる。
「……温かい」
ぽつりと呟くと、少しだけ手のひらが動いた気がした。それをかき消すようにぎゅっと一層強く手を握る。
「ねえ、今日は喰らう気になりましたか?」
ふるふると首を振られた。
「……じゃあ、明日は殺してくれますか?」
ふるふると首を振られた。
「………明後日は…明々後日、は……………ずっと、ずっと遠い未来なら……殺して、くれますか…… 」
細く長いあの人の指が、僕の涙を拭った。指輪がかすかに頬に触れて、冷たさに少しだけ涙が止まった。その代わりのように次々溢れ出す言葉たちを、あの人は静かに聴いてくれた。
「……いたぞ! 」
突然、鋭い声がした。と同時に、あの人の影がぶわりと膨らんだ。そしてそのまま僕の眼の前で、影はあの人を覆い尽くす。まるで意思を持つかのように、煙のような影はある形をかたどってゆく。
それは、ほんの一瞬の間のできごとだった。
警察官達が神社に辿り着いて最初に見たのは、ゆらりと揺れる影に覆われた、あの人の…………おぞましい化け物の姿だった。