美味しいと評判の天丼の店で天丼とお茶を二人分買って、あばら屋まで行った貴弘は、玄関前で、鍵を手に強張ったり、へらへら笑ったりするのどかを少し離れた位置から眺めていた。
ひとりで玄関に立っているだけなのに、何故、こんなにも表情が変わるんだろうな、などと考えているうちに、のどかが玄関扉を開けようとしたので、我に返る。
足音をひそめたつもりはなかったのだが、庭が草だらけだったので、音が出なかったようだ。
「おい」
といきなり、肩を叩かれたのどかは、ひーっ、と乙女にあるまじき悲鳴を上げ、殴り殺しそうな勢いで、鞄を振り上げる。
だが、すぐに相手が誰だか気づいたらしく、鞄を振り上げたまま、
「あっ、おっ、お疲れ様ですっ」
と急いで笑顔を作り、言ってきた。
……いいから、下ろせ、と思いながら、貴弘は、まだ警戒を解かずに、鞄を構えたままののどかに溜息をつき、
「ほら」
と天丼の入った紙袋を差し出した。
「お隣さん、見ないんですよね、全然」
貴弘が来たことで、心強くなったのどかはようやく玄関を開けた。
貴弘は、一緒に中に入りながら、
「別に顔合わせなくていいだろ。
こんなとこ借りるの、訳ありのやつだけだろうし」
と言う。
……貴方は、何故、そんな訳ありのやつしか住まないところを私に紹介しましたか、と思いながら、のどかは靴を脱ぐ。
入ってすぐのところは広い三和土になっていた。
三和土とは土間のことだが。
土と石灰とにがりの三種類の素材を混ぜて、叩いて固めてあるので、三和土と言ったりする。
ぱっと見はセメントっぽいけどな、とのどかはその広い三和土を見た。
大きな鉢に花でも活けたら映えそうな三和土だ。
隅に自分のものではない男物の黒い靴があるのが、ちょっと気になるところだが……。
貴弘がその靴に目を留め、訊いてくる。
「誰か男でも連れ込んでるのか」
「……靴があるから、連れ込んでいるという話になるのなら。
私、たぶん、一家で連れ込んでますよ」
と言いながら、のどかは大きな靴箱を開けて見せる。
そこには、赤いハイヒールや土で汚れた子どもの靴など、一家族分の靴があった。
ほんとうに、なんで、なにもかも置いて出てったんだろうな、前の住人、と思うのどかに貴弘が言う。
「……ほんとうに此処に住む気か?」
いや、貴方が貸してくれたんですよね? この家……と思いながら、のどかはパチリと灯りをつけた。
「ほう。
中は、なかなかいいじゃないか」
と広い座敷の中を見回し、貴弘が言う。
そうですね、大家さん。
大家さんが家の中知らないってどうなんですかね? とは思うんですけどね、大家さん。
そう思いながらも、のどかは言った。
「でもこの家、使ってなかったわりには、あんまりカビ臭くないですよね。
なんか爽やかな風が吹いてるし」
「……駄目だろ、家の中で爽やかな風が吹いてちゃ」
そういえば、そうですね……。
湿気った感じでなくてよかったと思ってしまったのだが。
よく考えたら、それは、あちこちに隙間が空いているということだ。
「……カーテンもカーテンレールも変えないといけないな」
と昔風の重そうなカーテンを見ながら、貴弘が顔をしかめて言う。
「そうですね」
今のアパートのカーテンじゃサイズが合いそうにないな、と思いながら、のどかが頷いたとき、貴弘が言った。
「カーテン、ちゃんと閉まらなかったら、家の中でいちゃつけないしな」
振り向くと貴弘は大真面目な顔でカーテンレールを見ている。
「……誰と誰がいちゃつくんですか?」
真面目な顔のまま、貴弘はこちらを振り向き、
「俺とお前だろう」
と言う。
いえいえ、とのどかは手を振る。
「仮の夫婦ですから」
「そうか」
とあっさり貴弘が言ったあと、沈黙が訪れた。
どうも今回の婚姻に関して、この人との間に、いろいろと捉え方の違いがあるような……とのどかは思う。
契約書でも作るべきだろうか。
いや、そういえば、この家借りるのも、家主のこの人が使うということになっただけで、私自身はなにも契約していないが、と思ったとき、静かになったせいか。
例の、カリカリカリカリ……となにかを引っ掻くような音が聞こえてきた。
「あっ、私は猫希望なんですけど。
ネズミかもしれないものの音がっ」
とのどかは叫ぶ。
よく考えたら、その猫かネズミ以外居ない広い夜の屋敷に二人きりだ。
のどかは今の話題をそらそうと、貴弘の注意を謎の音に向けさせる。
貴弘は音の方を振り向きながら言った。
「ネズミはとっとけ。
鳩を空飛ぶネズミというくらいだからな」
いや、普通は、
『無害そうな鳩も危険。
空飛ぶネズミというくらいだからな』では……?
害のあるネズミに比べ、鳩は、ぽっぽっと言っている可愛い姿しか頭に浮かばないのだが。
この人、鳩に襲われたことでもあるのだろうか……。
私はアフリカハゲコウとか、鷹ならありますけどね、と思いながら、のどかは部屋を出て行く貴弘に付いて行く。
「何処から聞こえるんだろうな」
と屋敷の中を歩きながら、貴弘は異音の正体を探して歩く。
すると、カリカリカリ……と実家に猫が居るのどかには、やはり、猫が爪を研ぐ音にしか聞こえない音が聞こえてきた。
「そういえば、前、友だちの家の天井裏で猫が子ども産んでたんですよね」
と天井を見上げながらのどかは言ったが、
「そうか」
と言いながら、貴弘は足許を見ている。
……この人とは気が合わないようだ、と思ったが。
耳をすませば、確かに下の方から音が聞こえてくる。
隣との境らしき箪笥がある廊下の方だ。
耳がいいのか、正確に音に向かって歩いているらしい貴弘が、その箪笥のところにたどり着く。
廊下の壁に添うように、いきなり、どん、と古い大きな箪笥があるのだ。
簡単には動かせない感じだ。
「この箪笥は何故、こんなところにあるんだ?」
と貴弘が訊いてくる。
「位置的に、隣との境をこの箪笥で塞いでるんじゃないかと思うんですが」
とのどかは言ったが、貴弘は、
「いや、おかしいだろう。
隣との境は、戸と鍵で塞いであると聞いている」
と言う。
家の持ち主が、聞いているというのもおかしな話だが。
まあ、入ったこともなかったのだろうから、仕方ない。
そんなことを考えているのどかの前で、貴弘が箪笥の後ろを覗き込み、言ってくる。
「……壁との間にかなり隙間があるな」
「風を通すためですかね?」
「細い人間なら通れそうなくらいだぞ。
こんなに開けておく必要あるか?」
「入れますかね~?」
と貴弘と一緒にその壁と箪笥の隙間を見ながら、のどかは懐疑的に呟いたが、
貴弘は、
「俺は横向きになれば通れるかな。
ちょっと入ってみよう。
お前は無理するな」
と貴弘は言ってくる。
……どういう意味ですかね。
そんなに太ってはいませんよ。
そして、胸が壁につかえることもありませんよ、ええ。
貴弘は単に無理するなという意味で言ったのかもしれないが。
この均整のとれた美しい身体の仮夫にちょっぴりコンプレックスのあるのどかはいじける。
「あ、でも、ネズミが居るかもですよ」
と今は聞こえないカリカリという音を思い出しながら、のどかは言ったが、貴弘は、
「ネズミならいいが。
人間の男が居たらどうする」
と言う。
……まあ、こっち半分は長く空き家だったみたいだから、誰か住み着いてる可能性もなくもないか、と思っている間に、貴弘はもう壁際を向いて隙間に入っていた。
ひーっ。
行動、はやっ。
空飛ぶ鳩が居たらどうするんですかっ、と動転して思ったが、鳩はもともと飛んでいた。
「社長っ。
危なくないですかっ?」
と職場に居るときのくせで呼んだが、貴弘は、
「社長はよせ。
家でまで呼ばれると疲れる」
と言う。
こんな生まれながらの社長みたいな人でもそうなのか、と思うのどかに、
「俺はプライベートと仕事は分けたいんだ。
貴弘さんと呼ぶまで、此処から出ないぞ」
とゆっくり隙間を進みながら貴弘は言ってくる。
……じゃあ、一生挟まっててください。
急に呼べるわけないではないですか、と思ったとき、貴弘が声を上げた。
「扉があるぞ!」
「えっ?
じゃあ、やっぱり、これ、扉を塞いでる箪笥なんですかね?」
「そうだとしても、こんなに隙間が空いてたら、向こうから人が出てこられるだろう。
鍵もないし。
……あ、開いた」
と貴弘の声がした。
えっ? と思った瞬間、貴弘は壁の向こう側に向かい、扉を開けていた。
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家族で住んでる⁈