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「大丈夫ですかっ?」
のどかは、扉の向こうに行ってしまったらしい貴弘の後をついて、にじにじと扉と壁の隙間をカニのように移動する。
すると、そこに部屋が現れた。
ガランとした大きな部屋だ。
電気も通っているらしく、貴弘が照明をつけた。
急に明るくなったので、のどかは眩しさに目をしばたたく。
その部屋は、北側に押入れのようなものがあり、東側にまた木製の扉があった。
そこには錠前が下がっている。
「あ、鍵……」
とのどかは呟いた。
「じゃあ、あそこが隣との境なんですかね?」
「そのようだな」
「ってことは、此処までが、私の陣地ってことですね」
「陣地?」
子どもか、と貴弘がのどかを見下ろす。
「一部屋もうかりましたね」
と笑うのどかに、
「……そういう問題か?
明らかになにか隠すように塞いであったろ、此処」
と貴弘は眉をひそめて言った。
「でも、子どもの頃、夢で見たりとかしませんでした?
実は家にもう一部屋知らない部屋があって、わあい、と喜ぶとか」
貴弘を見上げてそう言ってみたが、貴弘は部屋の中を油断なく見回しながら、
「使ってない部屋なんか、家にいっぱいあったから、別に、わあい、じゃない」
と言う。
……大嫌いだ、お坊ちゃんなんて。
きゃあ、とか言わないのだろうかな、この女……。
そう思いながら、貴弘は横で、へえー、と物珍しげに部屋の中を眺めているのどかを見る。
正直言って、のどかをどう思っているのか、まだよくわからないのだが。
酔っていたとはいえ、今まで、結婚の「け」の字も思いつかなかった自分が、結婚しようとまで思った女だ。
何処か、他の女とは違うなにかがあるに違いない。
そう貴弘は思い、のどかを観察していた。
のどかは、おのれの陣地に、もう一部屋現れたことを素直に喜んでいるようだった。
俺はこの部屋、ちょっと怖いんだが……、と貴弘は思う。
空き部屋なら、使わないものなどを詰め込んでそうなのに、何故、この部屋にだけなにもないのか。
お前は気にならないのか? のどか、
と貴弘は、のどかを見てみたが、のどかは此処になにかを置くつもりなのか、部屋の中を歩き回りながら、ふふふ、と笑っている。
悲鳴を上げて、すがりついてくる気はなさそうだ……。
そう思いながら、貴弘は東側にある扉の鍵を確かめた。
「うん、開かないな。
しかし、此処の鍵は誰が持ってるんだろうな」
大家の俺も知らないが、と思いながら、今度は押入れの前に行く。
のどかが側に寄ってきた。
一緒に押入れを覗き込むつもりのようだ。
ちょっとワクワクして見える。
……楽しそうだな。
いっそ、なにか出てこないだろうか……と思いながら、押入れを開けてみたが、やはり、なにもなかった。
ただ暗い空間があるだけだ。
「あ、此処にもなにか入れられそう」
と機嫌よく、のどかが言う。
ひょいと身を乗り出ししてきたので、のどかの肩や髪がちょっと腕に触れそうになったが、その前に、のどかは居なくなっていた。
もう押入れには興味をなくしたらしいのどかは、今度は東側の扉の鍵をいじって見ている。
ひとり取り残された貴弘は、押入れを閉めようとして、気がついた。
隅に干からびた蜘蛛が落ちていたことに。
きゃー……とか、見せてもきっと言わないよな……、と思いながら、貴弘は静かに押入れの戸を閉めた。
「はあ~、最高ですね、この天丼っ」
あやしい部屋を出たあと、のどかたちは貴弘が夜食にと持ってきてくれた天丼を食べていた。
玄関入ってすぐの広い部屋でだ。
幸い、家具はそろっているのでテーブルも幾つかある。
「高そうですよね、このテーブル」
とのどかは重そうなその黒いテーブルを見た。
「他の調度品も品がいいものばかりだし。
やっぱり、夜逃げとかじゃないんでしょうね」
だろうな、と言う貴弘に、のどかは彼が持ってきてくれた天丼の美味しさを熱く語る。
「本当に美味しいですね、この天丼っ。
カリカリパリパリの揚げたての天ぷらもいいですけど。
容器に入って少し、しんなりしたところに、とろみのある絶妙な甘辛ダレが染みてるのも最高ですねっ」
「夜食のつもりで持ってきたんだが、晩ご飯はもう食べてたのか?」
と問われ、
「いいえ、まだです。
ちょうどよかったですっ」
と言うと、
「そうか。
俺も忙しかったから、まだ食べてなかったんだ」
と貴弘は言う。
「そうなんですか。
連休なのに、全然、おやすみじゃないですね」
「なかなか、連休まるまる休める会社もないだろうよ」
そうですか。
私はクビになったので、暇ですが……。
でも、連休明けには、手続きもいろいろあるし、会社に顔を出さねばならんだろうな、と思う。
「……そういえば、お前、海崎社長と幼なじみなんだったな」
と妙な間を持って、貴弘が訊いてきた。
「はあ、腐れ縁でずっと一緒だったんですよ。
殴り殴られ、仲良く育ちました」
と言って、それ、仲良いのか? という顔をされるが。
いや、そのくらい遠慮のない関係で。
まるで男同士の友情のような感じだったのだが……。
「なんだかわからないけど、急に、
『もうお前の顔も見たくない。
クビだっ』
って言われたんですよ~。
……綾太がいきなり、うちの社長になったとき、ちょっとやりにくいな~と思ったんですが。
綾太もそう思ってたんですかね?」
「いや、たぶん違う理由だろうよ」
と貴弘は素っ気なく言う。
「お前は、とある方面には、ものすごく疎そうだからな」
「どの方面ですか?」
と味のよく染みたご飯部分を食べながら言ったが、貴弘は、
「まあ……、俺もあんまり器用な方じゃないけどな」
と呟き、立ち上がる。
帰るようだ。
外まで見送ると、
「お前、今日は此処に泊まるつもりなのか?」
と貴弘は、あやしいあばら屋敷を振り返り言ってきた。
庭から見ると、ちょうど月を背にしていて、今にもなにか出そうな感じだ。
「……とっ、泊まるつもりなのかって、此処、私の家ですからね」
とちょっと気弱になりながらも、のどかは言った。
だが、
「もうちょっと片付けてからにした方がいいんじゃないか?」
と弱い心につけ込むように貴弘は言ってくる。
いや、ただ心配して言ってくれているのだろうが……。
確かに。
手入れをしたら、いい家になりそうだが、今はただのあばら屋だ。
のどかが黙って家を見上げていると、
「……うちに来るか?」
と貴弘が訊いてきた。
「いえいえ。
では、アパートに帰ります。
そういえば、まだベッドもあっちだし」
とやはり、今日のところは、この屋敷から逃げ出すことにして言うと、貴弘は、……そうか、と言う。
「じゃあ、送ろう」
と言われ、のどかは慌てて荷物をまとめ、家に鍵をかけた。
「お待たせしました」
と言ったのどかに、貴弘はチラとあばら屋敷を見上げて、呟く。
「こんなところに無理して住まなくてもな」
いやいや、だから、此処、貴方が紹介してくれたんですよね~っ?
と思ったとき、貴弘が鬱蒼とした庭を見て言った。
「貧乏草も生えてるしな」
「貧乏草?」
「ヒメムカシヨモギだよ」
という貴弘の視線を追うと、よく荒地などで見る背の高い逞しい感じの草がたくさん生えていた。
「これ、貧乏草っていうんですか?
よく見かけますけど」
じゃあ、これ生えてる家、みんな貧乏なのか。
お金持ちの貴方の家にも生えているのでは?
と思ったのだが、貴弘は、
「なんで貧乏草っていうのかは知らん。
ばあさんが線路沿いに生えてるのを見て、よくそう言ってたんだ」
と言う。
「へー、そうなんですか」
と相槌を打ちながら、のどかはアパートまで送られた。