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「ハルマイトさん? 今の状況で殺す必要がありました?」ユカリは静かに問う。
ハルマイトは顔を上げて、ユカリの方を見、不思議そうに首をかしげる。「どうしたいきなり。今話すべきことか?」
「答えて」ユカリは冷静に努めようとしたが、声が震えた。
ハルマイトは苛立ちを隠すことなく答える。「必要がなきゃ殺しちゃいけないのか? どっちみちお前を殺そうとした悪者だろう?」
突き落とされた彼がどんな人物かなんて分からない。生家にて焚書を行った一人なのかも分からない。どういうつもりでこの仕事に従事しているかなんてユカリが知るはずもない。
「だけど、仮にそうだとしても無抵抗の相手をわざわざ殺す必要がありますか?」
ハルマイトは頭を掻きむしり、ユカリを睨みつける。
「助けてやったのに文句言うなよ」と言ったハルマイトの語気は強い。
ユカリは一つ一つ感じたことを言葉に変えようとする。「私を助けるために、殺したのだったら、文句なんて言いません。助けてくれたことにも感謝しています。でも実際は私を助けたあとに殺した。それは、ハルマイトさんらしくないと思いました」
ユカリは今になってハルマイトが持っている紙、魔導書らしき羊皮紙に気づいて眉間にしわを刻み込む。
「らしくない?」とハルマイトも繰り返す。「ユカリがどれほどのことを知っているっていうんだ? 半日かそこらの付き合いだったろ?」
確かにその通りだ。ユカリは知っていたのではなく、むしろ、そういう人物だろうと期待していたいのかもしれない。
「それに傭兵をやってる男だぜ?」とハルマイトは呆れた様子で言う。「それほど殺すことに抵抗があるとは思えねえけどな」
ハルマイトの言葉の意味をユカリは飲み込めない。何かおかしなことが進行していることに気づく。
「ねえ、ハルマイトさん? 誰のことを言っているんですか?」
その時、とば口から足音が聞こえ、部屋に新たな人物が入ってきた。チェスタだ。薄暗闇の中でも頭の仮面の歪な形はよく見て取れた。
「おや、まだここにいたんですか?」とチェスタは余裕そうな口ぶりで言った。「それは良かった。とはいえ事態は込み入っているようですね。物事はあまり複雑ではない方が良い。単純に、素朴に、簡潔に、手短にいきましょう」
そう言いのけるのと同時に、巧妙な魔術によって全ての窓蓋が音を立てて叩きつけるように閉じる。守護者の素材となった混凝土もまた飛ぶように這って、元の壁に還り、穴を埋めた。
ハルマイトが舌打ちする。ユカリは今言い争っていた件について考えないようにし、冷静さを取り戻す。
二人を視界に入れつつユカリは話す。「複雑なのが嫌なのは私も同じ、山羊の焚書官さんはちょっと外で待っててくれない?」
「なるほど、なるほど。魔導書収集家にして魔法少女のユカリさん。お久しぶりですね。ハルマイト君に入れ知恵したのは君ですか。まさか彼に魔導書を使われて出し抜かれるとは思いませんでしたよ。田舎の傭兵と聞いていたのでね」
「残念ながら」と言ってユカリはため息をつく。「私もハルマイト君に騙されてる気がしていたところだよ」
「ほお、そうですか」とチェスタは感心したように言った。「病に苦しむ末妹を思う彼の兄君は誠実そうな人だったのですがね。弟である彼は霊薬ばかりでなく、さらに私の所有する魔ど、聖典までをも欲したわけですか」
「魔導書って言いかけたのは置いておくとして」ユカリは苦笑しつつ呟く。「つまりハルマイトさんが聞き出したのは本物の霊薬の在り処じゃなくて、魔導書の在り処ってことだね」
「聖典の在り処ですね」とチェスタ。
「でもあの硝子瓶は空だったよ」とユカリは指摘する。「そっちだって嘘っぱちじゃない。初めからハルマイトさんを騙す気だったんでしょ?」
「いえいえ、ですが、異端者が知らないのも無理はありませんね。あの霊薬は空気で出来ているのですよ。患者に嗅がせることでたちどころに病を癒すのです。救済機構の霊薬と言えば割と有名なんですがね。数年先まで予約済みのところを伝手を使って手に入れたのです。とても貴重なものなのです、魔導書ほどではありませんがね。その硝子瓶の中身は救いの乙女に誓って本物の霊薬です」
チェスタが嘘を言っているようには見えなかった。
「本当にこの硝子瓶の中身の空気が薬なのか?」とハルマイトは【囁いた】。
「ええ」とチェスタは魔法をかけられてなお余裕たっぷりに頷いた。「その硝子瓶の中身は万能の霊薬である空気、より正確に言えば風が閉じ込められています」
ハルマイトがにやりと笑みを浮かべている。
「何だ本物だったのか。手間かけちまったな。ならいいんだ。これで助けられるぜ」
「ねえ、ハルマイトさん」と、ユカリはチェスタから注意をそらさないようにしつつ、ハルマイトに話しかける。「霊薬が必要なのは分かるんですけど。なぜ魔導書まで持って行くんですか?」
ハルマイトは心底不思議そうな表情で答える。「何でって、価値があるからに決まってんだろ?」
「前にも言いましたけど」とユカリは不機嫌さを隠さない。「魔導書なんて持ってたら災いがもたらされるんですよ? 平穏な生活はできないんですよ?」
「貴女が言いますか」とチェスタ。
ハルマイトは腕を組んで首をかしげて、わざとらしく迷うような素振りを見せる。
「でもそれ相応の力が手に入るんだろ? それに、もしもいらなくなったら、その時はお前の忠告通りに捨てるなり売るなりすればいいのさ」
少なくとも妹の為に必要というわけではないらしい。
「分かりました。それならこっちもそれ相応の力をふるいます」
ハルマイトは馬鹿にしたように笑みを浮かべる。
「この狭い部屋で巨大狼にでも変身するつもりか? やめた方が身のためだと思うけどな」
明らかな綻びが目の前に現れた。
「何で巨大狼のことを知ってるんですか?」とユカリは指摘する。ハルマイトにあの姿は見せていない。「あなた、本当にハルマイトさんなの?」
「ああ、そうだったっけ?」と言ってハルマイトは苦笑する。「失敗、失敗。ここまでうまく騙せてたのになあ。まあ、でも、いいよね。欲しいものはちゃんと手に入れたし、大嫌いな奴を出し抜くことも出来たんだし」
ハルマイトの表情も身振りも姿勢もまるで別人になった。
「今、語るべきことは他にあるでしょう」とチェスタは仮面の位置を正しながら言った。同時に唯一開いていた玄関の扉が自ずから閉じる。「取引通り霊薬はどうぞ持って行ってください。しかし魔導書を譲るつもりはありません。あと聖典も。そう簡単に、ここから逃げ出せると思わないことです。さあ、時間は十分に与えました。各々どうすべきか決めましたか?」
「僕はもう帰るからさ。あとは二人で話し合ってよ」とハルマイトらしき人物は言った。
そして唐突に夏の夜に相応しくない寒気を感じ、ユカリは身を震わせる。
チェスタは天を仰ぐようにして小さなため息をつく。「では、話はこれまでですね」
部屋のそこここの蝋燭が強い輝きを放ったかと思うと、大きく燃え盛り細い火柱が天井まで達した。
「私を守って!」という【叫び】に応じて再び壁から抜け出した守護者がユカリの前に立ちはだかり、蛇のように踊り狂う蝋燭の炎から守ってくれる。
ユカリは再び壁が閉じる前に、今空けた穴から外に飛び出し、グリュエーに頼んで怪我しない程度の速さで地上に落ちる。
ユカリは地面に叩きつけられた焚書官が視界の端にいることに気づくが、そちらを見ることは出来なかった。八〇七号室を見上げると、轟音と爆炎と共に壁が破壊され、火に包まれた誰かが人間離れした跳躍力で飛び去るのが見えた。落ちてくる瓦礫から離れつつ、ユカリは山羊の仮面のチェスタがこちらを見下ろしていることに気づく。
瓦礫の雨が止むと、ユカリはグリュエーと共に火に包まれたハルマイトを追う。屋根に飛び上がり、瓦と煙突を踏み台にして駆ける。
燃え盛るハルマイトは地上の街路を縫うように、何度も何度も角を曲がった。
とうとうハルマイトの体の火が消え、姿を見失うと、ユカリは梟の鳴き声を【真似て】、宝石の輝きの如き羽根を纏った魔性の梟に変身し、夜空に舞い上がる。街を鮮やかに照らし出し、ユカリはハルマイトらしき影を即座に見出す。変身を解き、落下し、【叫ぶ】。煉瓦か何かを材料にした守護者とグリュエーと共にハルマイトの体を取り押さえた。
「さあ、ハルマイトさん、じゃない人。魔導書と霊薬を返してもら……、どれも私のものだったことはないか」
しかし投げ出した両手に、秘密を暴く魔法の魔導書と先ほどハルマイトらしき人物が発見した焚書官たちの魔導書は見当たらなかった。霊薬だけ握っている。
ユカリは異臭に気づく。嗅いだことのないおぞましい臭いだ。守護者に取り押さえられるハルマイトの体から煙が立ち上っていることに気づく。全身が焼け焦げて炭になっている。服は焼失し、肉が爛れている。それでもハルマイトらしき人物は威勢良く怒鳴りながら、守護者の拘束を抜け出そうと暴れている。
うつ伏せになるハルマイトの指から守護者に霊薬を奪い取らせると、その指が砕けてしまった。ユカリは叫びそうになるのを堪え、目をそらし、尋問する。
「魔導書はどこに隠したの? あなたは何者なの?」
ハルマイトらしき人物は守護者に押さえつけられて苦しそうに答える。「おい! 霊薬を返せよ! それは僕んだぞ!」
「質問に答えて、ハルマイト」
「僕はハルマイトじゃない。子犬だ! ユーアに忠誠を誓う戦士なんだからな!」
ユカリは考えていた可能性の一つを受け入れるしかないことに気づく。
「ヒヌアラと同じ、ユーアを連れ去った連中ってわけね」
確かに、ワーズメーズで巨大狼に変身するところを見せている。
「そうだよ! 薬返せよ! 僕が任された僕の任務なんだぞ!」
「勇気を奪う魔法でハルマイトを無抵抗にして、人形遣いの魔法で操ってるってことね。ショーダリーに攫われた子供たちみたいに」
ハルマイトを操るパピは胸に何かつかえているように咳き込みながらも大声で笑った。
「僕はそんな回りくどいことしないよお、だ! もっと簡単な方法があるんだからね!」
その言葉の意味をユカリは受け入れなかった。
「嘘! 人形遣いの魔法は子供の力でも抵抗できるんだから。そうでもしないと人間を操れるはずがない! それともネドマリアさんみたいにハルマイトがあんたたちの仲間になったとでも言うの!?」
「なにそれ? 現実逃避なの?」パピは嬉しそうに言う。そして、手足をばたつかせるのをやめて小さく呟く。「まあ、もういいけど」
「主!」と守護者が怒鳴る。「何者かが参りますぞ」
ユカリもその足音に気づき、背後を振り返る。暗闇から男が走ってくる。
「グリュエー!」と唱え、杖を指し示すと風が巻き起こり、男を吹き飛ばす。
守護者が助太刀しようと立ち上がる前にユカリは制止する。
「私が相手するから、パピを押さえておいて!」
「しかし主よ! こやつはもう……」
建物の陰からどこか見覚えのある男たちが現れる。誰もがうつろな表情で生きているのか死んでいるのか分からない。一斉に躍りかかってきて、一斉に風に巻かれて地面に転がる
「それが狙いに決まってる! 周囲で陽動して再びハルマイトの体を操って霊薬を奪わせる。そうでしょう!? パピ! 浅知恵だね」
その男たちは今朝見た海賊たちだとユカリは気づく。頭を無くした男は見当たらなかった。
海賊たちの中の一人が舌打ちをして立ち上がる。
「そんな回りくどいことしないって言っただろ。ただ単に二つの魔導書を逃がす時間稼ぎしただけだし。その薬だって諦めたわけじゃないからな。絶対に僕が取り返すんだからな。せいぜい大事に守っとけ! べえ、だ!」
そう言って海賊だった男が走り去ると、他の男達も各々別方向へ逃げ去った。
ユカリは守護者の魔法を解除する。地面に組み伏せられていたハルマイトは、他の海賊たちと同様に既にこと切れていた。おそらく、ずっと前に。
涙を流す間もなく、街のあちこちで火柱が立つ。八〇七号室の蝋燭の火とはわけが違う。ユカリは涙も拭わず立ち上がり、ぼやける夜の向こうに立ち去った。