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ハルマイトの代わりに霊薬を故郷に届ける、とユカリは心に決めた。いつの時点でハルマイトが操られていたのかユカリには分からないが、あの草原での夜、ハルマイトの語った兄や妹、故郷の話の全てが嘘だったとは思えなかった。
ハルマイトの故郷クル村の正確な場所は、ある集落で出会った親切な行商人の夫婦に尋ねて分かった。その行商人の夫は一つの忠告をユカリに与えた。
「ここから真っすぐにクル村に向かのはやめておくことだ」
ユカリは親切心からの忠告に感謝しながらも理由を尋ねた。「先を急いでいるのですが、真っすぐに行くと何があるのですか?」
夫は顔をしかめて首を振る。「森に突き当たる。確かにクル村へと道が通じているが、その森に人食いの怪物が出たという噂を聞いた。その辺りの村々から人々が逃げだしたとも、食われたとも聞いた」
ハルマイトがそのような話を語っていたことをユカリは思い出した。
「ご忠告に感謝します」とユカリは夫婦を安心させようと、にっこりと微笑んで言った。「怪物の夕餉になるわけにもいきません。それでは回り道をすることに致しましょう」
親切な行商人の妻は、一人旅をする娘の言葉か態度に何か勘づいたのか、ユカリに幸運に恵まれるおまじないまでかけてくれた。既に元の意味と十全な力の失われた短詩だったが、ユカリを勇気づける力があった。
そうしてユカリは二人の親切な行商人の夫婦と別れた。
天をも貫かんと鋭く伸びる杉の樹の森にユカリがたどり着いたのは、ある肌寒い日の暮れだった。すっかり太陽が空に長居する季節となり、一日の旅程も日々長くなる。
森は関所のように厚く物見櫓のように高く、肉体を持たない霊魂や邪な精霊を除く何者をも拒む堅固な城壁のように佇んでいる。古くは多くの信仰を集めていた森も、今では顧みられることも少なくなり、その地の伝説も形を変えてむずかる子供のために炉端で語られる御伽噺となっていた。
ユカリはその晩を森の奥から流れてくる精気と静寂を溶かした小川の畔で過ごすことにした。浅く濁りのない川に沿って杉の森を抜ける風は冷たく、何事かを囁いているようで、ユカリはとても話を聞く気になれなかったが良くない徴を運んできたように思えた。
ふと魔導書のひりつくような気配を感じる。あいかわらず距離も方向も分からない気配にユカリは嫌気がさした。とはいえユカリの経験から言って魔導書の気配はかなり遠くまで届く。すぐにどうこうということはない。
苦労して枯れ木を集め、宥めすかして火を熾し、前に立ち寄った集落で買った携帯食、麦酒を練り込んだ麺麭のようなものを焙る。粉っぽいのも麦酒の風味もユカリの好みではなかったが、日持ちするし腹持ちもよい。
ユカリはごつごつした河原に座り、川風で涼を感じつつ、麺麭の良い頃合いを待ちながら、女王のように下界を睥睨する銀の月を眺める。一点の曇りもない輝きは星々の軍勢を率いる女傑のようだ。天を指さし地上に林立する不遜な杉に、鋭い光を射かけている。
その月が瞬く間に消え、そして現れた。何者かが不敬にも月の御前を横切ったのだ。
ユカリは跳ねるように立ち上がり、夜空に目を凝らす。それは星空を彫り刻んだかのように巨大な人の形をしており、その一対の眼窩から一対の角が伸びていた。
ワーズメーズでユーアを攫った巨人像。そうだと気づくのと同時にユカリは森へと駆け出す。森へ飛び込むと、密な木々に巨人の足は見えず、空を見上げるが、やはり木々に隠されて巨人の頭も見えない。
ユカリは己の愚かさに悪態をつき、魔性の梟へと変身する。星空へと舞い上がり、その珠玉の羽根を輝かせ、森を彩る。しかし巨人の姿はどこにもなかった。魔性の梟の宝石の如き羽根の輝きも、月や星の遍く夜を照らす偉大な光明も、醜悪な巨体を見い出しはしなかった。
巨人の歩いていた辺りへ、魔の梟は再び暗い森に舞い降りる。柔らかな湿った土に着陸すると元の姿に戻り、暗い森の中のわずかな月影を頼りに周囲を調べる。
「どこへ行ったの!?」と独り言を呟く。
巨人の痕跡は確かにあった。杉の葉が散り、下草を倒し、地面が巨大な足の形にめり込んでいる。痕跡をたどって、巨人の爪先の方向へ走ろうとする矢先、夜気を纏った風が頬を撫でた。ユカリにはそれがグリュエーだと分かった。
「どうしたの?」とユカリがグリュエーに問いかけると、
「どうもしない」と風のお供は答えた。「ユカリこそどうしたの?」
そう言われてユカリは少し冷静さを取り戻した。何も考えずに飛び出した自分を恥じ入る。安全な故郷の村ではないのだ、と自分自身を戒める。ユカリは何となく合切袋に手を伸ばす。魔導書と霊薬の瓶があることを確かめたかった。
あらためて月を覆い隠した巨人の姿をユカリは思い浮かべる。ユーアを連れて行った巨人像に似ていた。それは突然現れ、今忽然と姿を消した。
ユーア達に関わりがあるのだとすればヒヌアラやパピがそばにいる可能性がある。巨人像が姿を隠したのだってネドマリアの迷いの呪いであれば容易いことだろう。
それに魔導書の気配もユカリは感じていた。これがユーア達の持っている物なのか、また別の魔導書に巡り合っているのか、それは分からない。後者だとすればあの巨人は魔導書を探しに来たのかもしれない。
親切な行商人の妻がかけてくれたおまじないを想ってユカリは深呼吸し、森の清らかな空気を肺一杯に吸い込んだ。そして不意に頭の中に浮かんだ想像で笑う。
グリュエーが少し心配そうにユカリの耳元に吹きかけた。「何が可笑しいの?」
ユカリはもう一度、悪戯を喜ぶ妖精のように密やかにくすくすと笑う。
「グリュエーって吸い込めるのかな、と思って」
「体の中で風が吹くわけない」
「そうでしょうとも」
その時、古代の王城の柱廊のごとく木々の立ち並ぶ森の奥から誰かが怒鳴りつけた。「貴様! そこで何をしている!」
ユカリは誰何の呼びかけが聞こえた方向に目をやり、目を凝らす。星影で薄まった暗闇に徐々に慣れて、何者かが近づいて来るのが見えた。
杉の木と木の間を通って現れた人影は白い口ひげを蓄えた男で、山刀のような刃物を握り、刃先をユカリに向けて構えている。
「こんばんは。怪しい者ではありません。夜の森の神秘に誘われたのか迷い込んでしまって。この近くに村があると聞いていたのですが」
男は片手で杉の木に掴まるようにして立ち止まる。もう片方の手に持つ山刀の刃先をユカリに向けたまま、それ以上ユカリに近づいても来ず、何かを探すように辺りを見回す。
「貴様、今誰と話をしていた? かかる老体といえど私の耳は衰えていないぞ。暗闇に潜む化け物か? 姿をくらます怪物か? 一体何を吸い込むって?」
ユカリは手を振り、首を振り、全身で否定する。
そうして目を泳がせつつ頬を染めて答える。「さっきのは独り言です。暗闇に怯える私を笑わないでください。何かを喋っていないと不安になって。深呼吸をしていたんです。この森の空気は美味しいですね」
男は目尻の皴をさらに深く刻ませて、ひとしきりユカリを睨みつけると、馬鹿にしたように鼻を鳴らした。「巨人退治に来た馬鹿かと思ったが、迷子の馬鹿だったか。ここには暗闇も這って逃げ出す恐ろしい怪物が棲みついているぞ。さっさと森を出ていくがいい。余所者の面倒なんぞ見るつもりはないからな」
そう言うと男はユカリに背を向けて、森の奥へとえっちらおっちら歩き去る。
「ちょ、ちょっと待ってください」ユカリは早足で男の背中を追いかける。「近くに村があるんですよね? 巨人の潜む森の近くで野宿するよりも恐ろしいことはありません。案内してもらえませんか?」
男は何も言わずにどんどん先へ行き、かといってユカリを追い払うこともなかった。ユカリは黙って男について行った。