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『まぁ! 奇遇ね。虫の知らせかしら』
美鳥は何気なく使った言葉なのかもしれないが、結葉はその言葉にドキッとさせられてしまった。
***
美鳥との電話を終えたあと、結葉は少し迷ってパソコンから『みしょう動物病院』の、偉央個人が管理している第一診察室のパソコンのメールアドレス宛に母親から電話があった旨の連絡を入れた。
もしメールを見るのが間に合わなくて偉央が実家に電話したとしても、それほど困ったことにはならないだろうと見越してのことだ。
時刻はまだ九時には至っていなかったし、本当は偉央のスマートフォンに電話を掛けてもきっと大丈夫だったはずだけど、何となく一方的に用件だけ送信できるメールに逃げてしまった結葉だ。
大したことを話すわけではないと分かっていても、夫と話すと思うと少なからず緊張してしまうから。
「はぁ……」
我知らず吐息が漏れて苦笑する。
(私、何でこんなに偉央さんの顔色を窺ってばかりなんだろう)
偉央だって、常に結葉に対して威圧的な態度をとっているわけではない。
いや、寧ろ穏やかに接してくれる方が多いくらいなのだ。
だけど、ふとした時に偉央が見せる攻撃性と拒絶が、結葉を萎縮させる。
いつ偉央の逆鱗に触れてしまうかもしれないという恐怖は、行動を起こそうとするたびに重い足枷になって結葉を雁字搦めにする。
パソコン前に座ってぼんやりしていた結葉に、新着メッセージを受信した旨のポップアップと共に小さな通知音が鳴って。
クリックしてみると、偉央から「了解」とたった2文字の素っ気ないメールが届いていた。
結葉だって用件のみしか打たなかったのだからお互い様なのに、何となく寂しく感じてしまった。
「偉央さん。私、もっと貴方と昔みたいに笑い合いたいよ」
声に出してつぶやいたら、胸がキュッと締め付けられた。
***
昼休みを利用して、偉央が結葉を実家まで送り届けるためだけに一旦帰宅してくれて。
マンションの地下駐車場から偉央の運転する車に乗って出庫した際、外の明るさに結葉は思わずまぶたを閉じた。
目をゆっくり開けたと同時、『みしょう動物病院』の建物が目に入って、結葉はふとここに初めて来た時、バスで実家と動物病院の間を行き来したのを思い出す。
「お忙しいのにいつも送り迎えして頂いてすみません。――あの……もしお手間でしたら……私、今度からバスでも大丈夫ですよ?」
助手席でぼんやり窓外を眺めていたら、たまたま路線バスとすれ違った。
「えっと……、何なら今日の帰りからでも」
それで何の気なしにそんなことを言ってみた結葉だったけれど。
「僕が好きでしてるんだ。気にしなくていいよ」
ハンドルを握ったまま、偉央がそう返してきて。
穏やかだけど有無を言わせぬ雰囲気に、結葉は思わず押し黙った。
でも――。
『みしょう動物病院』では午後の診察開始時刻こそ十六時からと、利用者にとっては「どれだけ長いことお昼休みを取っているの?」みたいなことになっているけれど、実際には午前の診察が終わるのは大体平均して十三時前後。
そこから、お昼休憩の一時間を足した十四時付近までが休憩時間で、十四時あたりから午後の診察が始まる十六時までの数時間は比較的軽微な手術などをするための時間になっている。
犬猫に関しては避妊や去勢といった不妊手術が大半を占めるけれど、もちろん病気を治療するための手術なども入ってくるから、獣医師や看護師たちはのほほんとしているわけではなく、忙しく立ち働いているというのが実情だ。
手術の混み具合によっては確かにのんびり出来る日もあるにはあるけれど、偉央の場合は往診などもしているからその限りではないはずで。
結葉としては自分のワガママのために偉央の貴重な休憩時間を削るのは申し訳ない気持ちで一杯なのだ。
「でも、あの……」
それで、珍しくさらに言い募ろうとしたら「しつこいよ? 結葉」と冷ややかな声音で言い捨てられて、ビクッとなってしまった。
「ごめん、冷たい言い方になっちゃったね。もちろん結葉が僕のことを心配して言ってくれたんだっていうのは分かってるつもりだよ? けど――。僕の結葉へのこれはある種の趣味みたいなものだから……。僕の楽しみを奪わないで欲しいな?」
少し涙目になりながらチラリと垣間見た偉央の横顔はとても穏やかに見えた。けれど、同時にこれ以上は言わないでね、というオーラも醸し出していて。
結葉は「はい」と小声で答えることしか出来なかった。
それに、実は結葉のなかに、偉央のことを心配している気持ちと同じくらい、少しだけでいいから自由に外を動き回れる時間が持てたらな?という下心があったことも否めなかったから。
結葉は偉央に、それを読み取られたような気がして後ろめたくなったのだ。
***
「じゃあね、結葉。仕事が終わったら迎えに来るから……。それまで実家でゆっくり羽を伸ばしておいで?」
車から降りた結葉に、偉央がそう声をかけてきて。
結葉は偉央からの言葉のなかに、「決して無断で家から出ることのないように」というニュアンスを感じ取って、胸の奥がズキンと疼いた。
それに気付いていないふりをしながら淡く微笑むと、運転席の偉央へ「分かりました」と応える。
その最中に、偉央の車のエンジン音を聞きつけたらしい結葉の実母・美鳥が、家の中から出てきて、
「お忙しい中、いつも結葉の送り迎え、恐れ入ります」
と結葉の横に立って偉央に頭を下げた。
偉央はそんな美鳥に、「結葉さんは僕にとってすごく大事な妻なので」とニコッと微笑みかけて。
途端、美鳥がビシッ!と背筋を伸ばしたのが結葉にも分かった。
毎日一緒にいて、偉央のことをそこはかとなく恐ろしく思っている結葉でさえ、偉央の芸能人もかくやといった超絶整った顔から放たれる、あのキラースマイルにはついつい見惚れてしまうのだ。
たまにしか偉央と対面しない母親が骨抜きにされてしまうのは致し方のないことだと思う。