葉月さんもいらっしゃらないのにいつまでも恋人ごっこを続けなくても良さそうなのに、と思いながらも何となくそれを言わせない雰囲気が織田課長にあって。
まぁ、週明けからいつも通りに接してくださったらいいやって思っちゃう辺り、私も大概流されやすいんだろうな。
「いただきます」
そういえばさっき、これを出されてすぐにも同じことを言ったっけ。
結局言うだけ言ってひとくちも口をつけていなかったのだから、織田課長に飲んで欲しいと促されるのも無理はない気がした。
鼻先までカップを持ち上げたら、ミルクと珈琲のフレーバーに混ざって、ほんのりとフルーティーな香りが上がってきた気がして「ん?」と思う。
珈琲豆がそういう種類なのかな?
そう思いながら口に含んでコクン、と飲み込んで。
「織田課長、これ!」
思わず叫んでしまう。
だって、だってこの味っ。
口に含んだときには余り分からなかったけれど飲み込んだ後、鼻に抜けた香りがどう考えても――。
「ん? まさかひとくちで分かっちゃいましたか」
いけしゃあしゃあと微笑まれて、私はその笑顔に一瞬ひるみそうになる。
でも、負けてなんていられない。
だって、こんな……勝手に酷いよ。
「どっ、毒を盛られた気分です!」
別に毒ではないけれど、今から運転しなきゃいけなかったのに出来なくなってしまったじゃない!
「毒とはまた随分な言われようですね。春凪の気持ちが落ち着くようにと、大匙にほんの1匙ブランデーを入れただけなのに」
何でそこでそんなシュン……とした悲しそうな顔をなさるのですか。
まるで織田課長を責めた私が悪いみたいじゃないですかっ。
それに、ほんの1匙とおっしゃいましたけど、このサイズのカップに大匙1杯はかなりの分量です!
「お、お気遣いは有難いですけど……やっぱり……そのっ、ひ、ひとことぐらいは相談していただきたかったというか何と言うか……」
ゴニョゴニョ……。
あーん、私、ダメな子だ。
織田課長のお顔が大好きすぎて、日頃会社では決して見せられたことのない、悪戯をとがめられた子供のような切ない表情をして見つめられたら、キュン、と胸が疼いちゃって。
もっと言及したいはずなのに歯切れの悪い物言いになってしまう。
しかも、「あ……。それはその通りでしたね。勝手に申し訳ありません」とかやたら殊勝に頭を下げられたら、それ以上言えなくなるじゃない。
「も、良いです。……気になさらないでください」
最悪、タクシーで帰ることも考えたけれど、お財布の中身を考えて二の足を踏んで、誰のせいなのかを考えてハッとする。
「あの、もしかして織田課長がお飲みになっているのにも……」
責任をとって織田課長に送っていただくと言う手もあるじゃないって思った私だったけれど、もしやと思って恐る恐る尋ねてみたら、
「もちろん、こちらのにもたっぷり入ってますよ? 下手したら春凪のより多いくらい。僕のは嗅いでもいないのに分かるとかさすがですね。バーで良い飲みっぷりだっただけのことはあります」
とか、わざとらしく目の前で飲んでみせながら言うの。
もう、それ! 絶対「送る気なんてないですよ?」の意思表示ですよね?
さっき、ロビーでコンシェルジュのお姉さんに、私の車を一泊させると話していた段階で、既にそういうのを目論んでいた気がするんですけど……。
「とりあえずご覧の通り部屋だけは余っていますので、今夜は泊まるといいですよ」
ニコッと微笑まれて、私はグッと言葉に詰まった。
「た、タクシーを呼んでいただければっ」
それでもなんとか絞り出すようにそう言ったら、
「でもそれでしたらまた車を取りにここまで戻ってこないといけなくなりますよ? タクシー代が無駄にかかりませんか?」
とか。
この人、もしかして私の財布の中身や通帳の残高を把握してらっしゃるわけじゃないです……よ、ね?
「車もたまたま一泊にしてありますし、泊まりの方が絶対いいと思います。――ね?」
ついでのように続けられて、全て計算ずくだったくせに!と心の中で悪態をついたけれど、まるでそんなことは思ってもいませんでした、と言わんばかりの爽やかな笑顔で見つめ返されて、私の方が邪推をしているような錯覚に陥りそうになる。
「あ、あの……織田課長。一応確認なんですけど。計画的犯行とかじゃないです、よね?」
無駄とは知りながら聞いてみたら、クスッと笑われて。
その笑みは肯定ですか、否定ですか?
「まぁ、もうどのみち飲んでしまったわけですし、飲みきっちゃいましょう?」
「はい」とも「いいえ」とも言わないで、私のカップを見つめてそう促すと、織田課長がふと思いついたように付け加えていらっしゃる。
「ねぇ春凪。今はお互いプライベートなわけですし、僕のことは宗親って呼んでください。家でまで役職で呼ばれたら何だか落ち着きませんから」
そんなことしたら、私の方が落ち着かなくなるのですが!という結論には達しないところがこの人らしいなと思ってしまった。
いや、気付いていてもあえてスルーされているだけな気がします。
だってこの人、腹黒ドS男だもん。
「私は逆に課長呼びの方が落ち着くんですけど」
それでも言わずにはいられなくて、堪らずそう言ったら、「柴田さん、呼び名の変更は上司命令ですよ?」とか、ズルくないですか?
「プライベートだと言ったかと思えば上司命令とか! 織田課長はズルイです!」
景気付けのようにグイッとカップの中のブランデーカフェオレを数口飲んでそう言ったら、
「でしょう? プライベートで仕事っぽい発言をするのはズルイことなんです。分かって頂けて光栄です」
って、論点をさらりとすげ替えられてしまった。
そっちがその気でしたら私ももう容赦はしませんから。
でも、とりあえずもう少しお酒の力をお借りしたいところです。
私はカップの中身を全部飲み干してから、ホワホワとした頭で織田課長――もとい宗親さんをジッと見つめた。
「それで、ずっとお伝えしそびれていた私が泣いた理由なんですけどね――」
とりあえず頭がまだしっかりしている間に、それだけはお話しておこうと思います。
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