「なるほど。更新手続きを忘れていたら、アパートの契約を親御さんに切られてしまった、と」
飲み物のお代わりと称して、ローテーブルの上には今、よく冷えたビールが入ったグラスが2つ置かれている。
宗親さんもさっさとそちらに切り替えたみたいで、昼間っから私、上司と隣り合わせで酒盛りなんて信じられない状況になっています。
初めのうちこそ躊躇いがちにちびりちびりと飲んでいた私だったけど、そう言えばこの人には初っ端で酔っ払って親友にくだを巻いてるのを見られたんだっけ、と思ったら段々猫をかぶっているのがバカらしくなってきて。
親友のほたると飲んでいる時さながらにいつも通りのペースでゴクゴクと飲み始める。
私のその様に目を細めながら、宗親さんは案外嬉しそうで。
部下を酔わせてどうこうしようとは考えていなさそうな澄ました顔を見て、このお綺麗な上司がどんな表情をして女の子に欲情するのか知りたい気がしなくもない。
まぁ、私は彼にとっては揶揄いの対象でしかないだろうし、無縁なのだけれど、例えばさっき下で駐車場の手配をしてくださったコンシェルジュの女性なんて、清楚が服を着て歩いておられるみたいで、誰の目から見ても魅力的だと思う。
そう言えば何となく雰囲気が宗親さんのお母様の葉月さんに似てたかも。
きっと宗親さんだって、ああいうタイプの女性が好みなんじゃないかしら。
私が男性でも迷わずあちらに行くもの。
***
おつまみに、と出された〝牛タンいぶりスモーク〟は、宗親さんが前に人からもらって食べて、美味しかったからと、わざわざお取り寄せしたものらしい。
綺麗にお皿に盛り付けて出されたそれには付け合わせの葉物まで添えられていて。
この人はどこまでもかっこいいなぁと悔しくなる。
私だったらそれこそ入ってきた容器のままドン!とかやりかねないもの。
うん、ますます私とは住む世界の違う人だ。
それなりに体裁を整えられたおつまみは、料亭の料理さながらに輝いて見えて。
その様に堪らず生唾を飲み込んだら、そっと私の方にお皿を寄せてくれるの。
一緒に出されていた、どこぞの窯元からやってきたような小皿に牛タンをひと切れ載せられて、「遠慮はしなくていいですよ」と言われたら食べるしかないよね?
食欲に負けてしまう自分にあれこれ言い訳をしながら、思い切って肉塊を口に放り込んだら牛タン特有のコリコリした食感と、香ばしいスモーク臭がたまらなく美味しくて。
「んー、これっ! 最高ですっ!」
無意識にグラスのビールを煽って、上機嫌に唸ってしまう。
味も結構しっかりついていて、本当にビールに合う!
「私、家では発泡酒しか飲めないんですよ〜。お金ないんで」
いわゆるビールテイスト飲料的なもの。
それでも十分美味しいのだけれど、やっぱりちゃんとしたビールを飲むと、違うなって思う。
「キンキンに冷えたビールって、何でこんなに美味しんでしょう!」
しかも真っ昼間っから飲んでいると言う背徳感が、うまみに拍車をかける。
ついつい嫌なことから目を逸らして、楽しいことに流れたくなるのは私の悪い癖。
「春凪、本題からそれてますよ?」
しかし、さすがそんな私を日々上手にアゴで使っていらっしゃるだけのことはある。
すぐ敵前逃亡しようとする負け犬の首根っこを捕まえるみたいに、問題に向き合うよう仕向けられる。
「だって……考えたってどうしようもないじゃないですか。私、就職が決まった時、自分へのご褒美だー!って無計画に車買って貯金使い果たしちゃいましたし……今から好条件のアパートが見つけられたとして、敷金礼金払える気がしないんですものっ」
ギュッとビールのグラスを握りしめて、
「小さい頃からそうでしたけど……結局――親の言いなりになって田舎に連れ戻されるしかないんです、きっと」
半ば自棄になってそう言ったら、鼻の奥がツンとして視界がぼんやり滲んだ。
「――仕事はどうするつもりなんですか? うちの会社、ご実家から通える距離なんですか?」
探るような目をして聞かれて、「まさかっ!」と首をブンブン振る。
この町からうちの実家まで、新幹線で2時間以上かかる。
降りた駅から会社までだって、在来線に乗り換えて30分ちょっと乗り継いで、たどり着いた先の最寄駅から徒歩で更に20分。
おまけにあちら――実家の立地から考えても、新幹線の駅まで車で30分はかかるの。
軽く見積もっても、通勤にトータルで3時間以上コース。
さすがにその距離を、毎日通ってこられるわけがない。
頭を振ったせいでアルコールが急激に回って、グラリと身体が傾いた。
「おっと」
それを片手で支えてくださってから、「――だから辞める、とか言いませんよね?」と低めた声音で問いかけられる。
「辞めたくは……ないです。だって辞めちゃったら、鬼上司のしごきに耐えた日々が無駄になって悔しいですもん」
そう。
せっかくこの1週間、死ぬ気で頑張ったのに。
来週からだって、〝織田課長〟の理不尽な要求に負けないつもりで立ち向かう気満々だったのに。
苦手な同年代の同期の男の子達とだって、少しずつ馴染む努力をしようって思っていたのよ?
辞めたいわけないじゃないですか。
「誰が鬼上司ですか」
吐息まじりに言われて、そう言えばこの人がその鬼上司でしたっけ、と思って可笑しくなる。
あー、これ。思ったよりお酒、回ってるかも。
ビールはともかく、初っ端のブランデーがきいたかな。
「何だかいつもより優しいから、別人に見えて忘れてましたぁ〜」
へらりと笑ったら、「僕はいつも女性には結構優しくしてると思うんですけどね」とか。
――あらヤダ。それ、本気でおっしゃられてます?
心の中でそう思って、何だか滑稽で堪らなくなる。
クスクス声に出して笑い転げたら「飲み過ぎです」ってグラスを置かれて、代わりにキッチンからマグに温かいお茶を注いだものを持ってきて渡される。
それを受け取りながら、
「自己評価甘すぎですね」
満面の笑みでそう言ったら、
「でしたら僕がどれだけ優しいか、春凪にも身をもって実感させてあげましょうか?」
って。
そんなのすぐには無理に決まってるじゃないですか。
「お手並み拝見しまーす」
笑いながらマグのお茶をそっと喉に流し込んで、すぐ横の宗親さんを見るとは無しに眺める。
「では――。お望み通り、僕が全力の優しさでもって、家なき子になりそうな部下を助けて進ぜましょう」
やたら仰々しい物言いをしてニヤリと笑うの、ずるい。
その笑顔は、いつもの如何にも〝人畜無害です〟みたいな嘘くさい営業用スマイルではなくて。
思わずゾクリとさせられてしまうような、とびっきりの腹黒スマイル。
なのにいつもより数倍かっこよく見えて、胸が一際大きくドキンッ!と高鳴った。
これはきっと、お酒のせいね。
***
「さっきカフェでどのくらい僕と母の会話を聞きましたか?」
不意に話を変えられた気がしてキョトンとしたら、
「誤魔化さず、単刀直入に話しましょう。僕は今、母から結婚を急かされて参っています」
溜め息まじりにじっと見つめられて、私は彼のアンニュイな雰囲気を漂わせる色気に、ソワソワしてしまう。
その空気に耐えきれなくて、マグを置いてさっき取り上げられたグラスに残ったビールを一気に煽って。
それでも足りなくてキョロキョロと視線を彷徨わせたら、
「お酒に逃げずに真面目に向き合ってもらえませんかね?」
そう言われて、再度グラスを取り上げられてしまった。
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