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#異世界転移
花月夜れん
2,559
設楽理沙
880
耀聖(ようせい)
269
耀聖(ようせい)
855
画院から皇太子の後宮へと向かう道の途中。
麗霞は葉青から手渡された陶器のふたを開けて、中に入っているお香の匂いを嗅ぐ。するとすこしだけスパイシーさを感じる、さわやかで温かみのある香りが鼻腔を満たした。
「へえ、お産の時ってこんな香りの香を焚くのね」
「緊張を緩和させるような鎮静効果のある薬草と、分娩を促す効果がある薬草とを組み合わせて作るの」
葉青はこれから、臨月を迎えた皇太子妃の宮へ、分娩時用のお香を持っていくのだと言う。
皇太子の子どもたちに書画を教えに向かう途中で会い、お香の香りを嗅がせてもらった。
「麗霞も必要になったら作ってあげるわよぉ」
「そんな予定ないったら」
二人で話しながら歩いていると、道の向こう側から宦官が一人、こちらに向かって歩いてきた。
それが煜峰皇子と分かると、葉青は脇に避けて道を開け、頭を垂れた。麗霞もそれに倣い、煜峰の顔を見ないよう俯いた。
次第に足音が近づき、そして、離れていく。
ふわりと空気に、いつもの香の香りを残して。
ほんの数年前なら、ごく普通の対応だった。
皇子から話しかけられ雑談を交わすことも、笑いあって冗談を言うことも、有り得なかったから。
話す機会は仕事上、必要な時だけ。
それなのに、今はそれがすごく悲しい。
ついこの前までは、道ですれ違えば視線を交え、微笑みあっていたのに。
麗霞の頭の中に呆れられてはおでこをつつかれ、頬を摘まれからかわれていたあの頃には、もう戻れない。
涙が滲みそうになってぎゅっと目を瞑っていると、何も知らな葉青が肘でつついてきた。
「私の前ではいいのに。そんな他人行儀なふりしなくったって。ねぇ、最近はどうなのよ。煜峰殿下とは。なにか進展はあった?」
「どうって、何もないわよ。ただの上司と部下」
「そんなこと言っちゃって。仲良さそうだったじゃない」
「なんにもないったら!」
思わずムキになって言い返すと、葉青は驚いた顔をして謝ってきた。
「ご、ごめん。殿下とちょっといい雰囲気だったかなー、なんて思ってたからさ」
「ううん、私こそごめん。最近両親から早く結婚しろって急かされてて。ちょっと神経質になってるみたい」
嘘ではない、それらしい理由を言うと、葉青はウンウンと頷いている。
「そっか。そうよね。結婚したら春画を描くのも難しくなるしね」
「……うん、そうね」
好きな人と添い遂げることも、好きでたまらない趣味を続けることも、どちらも叶わないかもしれない。
どうやって生きていくのが正解なのか。
答えはまだ、見つかっていない。
***
「はあぁぁぁぁっ」
紅葉の葉ほどしかない手に指を握られ、麗霞は悶絶した。
その様子を見て、皇太子妃と皇后はコロコロと笑っている。
皇后の還暦祝いの宴からひと月ほどして、皇太子に十一番目の子が生まれた。
――息子である。
皇太子妃は約束通り麗霞に、産まれて間もない赤ちゃんに会わせてくれているのだ。
皇太子妃と孫を見に来た皇后とに見守られながら、赤ちゃんの手のひらに恐る恐る触れると、ギュッと握り返してくれた。その力が思いの外強くてびっくりする。
「まだ小さくていらっしゃるのに、こんなに握る力が強いのですね」
「わたくしも初めて子をもった時には驚いたものだわ」
「目元が皇太子殿下にそっくりです。優しさが滲み出て。でも下半分は妃殿下似ですね。すっとした顎のラインとか、唇の形も。大きくなったらモテて困ってしまうのではないかと、今から心配です」
「うふふ、ありがとう」
ふにゃふにゃとした身体を一生懸命ジタバタとさせ、視線を彷徨わせている。
柔らかい布製の虎のぬいぐるみには、鈴が付いている。チリンチリンと鳴らしながらあやして遊んでいると、皇后が話しかけてきた。
「麗霞は良い母になりそうね。もうどなたかと婚約は済ませているのかしら?」
「い……いいえ、お恥ずかしながらまだでございます」
二十歳を過ぎても婚約すらしていない女性は、少々行き遅れと言われるようになってくる。
麗霞も今年で二十歳の誕生日を迎え、いよいよ本気で自分のこの先の人生を考えなくてはならなくなってきた。
「本日はその事で妃殿下にお話があるのです」
「なにかしら?」
「実は近々、官女を辞めようかと思っておりまして。殿下のお子様たちに書画をお教え出来なくなりますこと、お詫び申し上げます」
「まあ! それはご実家に帰って縁結びをしてもらうということかしら?」
「いえ……その逆です。家に帰れば父が即、嫁入り先を見つけてくるでしょう。以前妃殿下にお話したように、私の母は跡取りとなる子を産めませんでした。そこで私に、父よりもずっと良い家柄の男性を捕まえてくるようにと言われていたのですが……」
「振られたと、言っていたわね」
言葉に詰まると、皇后が代わりに口にしてくれた。
「はい。その御方の家柄はさておき、どうしても忘れられそうにありません」
「あらあら、なんて人なのかしらその男は。こんなに良い娘を泣かせるなんてどうかしていますわ、ねえ皇后様」
「本当ね。きっと後悔するわよ、その人は」
その男は御二人も良く知る、煜峰殿下でらっしゃいますけどね。
ここで実は私、煜峰殿下のことをお慕いしております。なんて言えるはずもなく。
手塩にかけて育てた子に、大した家柄でもない上、春画を描くのが趣味の娘を嫁がせたいわけがない。
二人は麗霞の春画を大変気に入ってくれているけれど、それはそれ、これはこれだとちゃんと弁えている。
赤ちゃんは大人達のお喋りに飽きて、いつの間にかすやすやと眠っている。
「他の誰かと家庭を築くことも考えましたが、でも……陛下と妃殿下を見ていたら、私にはその他の誰かとでは御二人のような夫婦になれる自信がどうしても出ないのです。上辺だけの関係ならば寂しいだけ。御相手の方にも失礼ですし、ならばいっその事、絵だけで街中で暮らしていこうかと考えております」
「絵だけでって貴女、女が一人で生きて行くのがどれほど辛いことなのか分かっているの?」
「分かっていると言いたいところですが、実際にやってみたらどうなるのかは私自身にも分かりません。でももう、どうしたら良いのか私にも分からなくて……ふっ……うぅっ」
もうぐちゃぐちゃだ。
自分が本当はどうしたいのか分からない。
母に一生愚痴をこぼされながら、父の決めた相手と結婚し、自分を押し殺しながら生きていくのが正しいのか。それともいつか素敵な方に出会えるかもと夢見ながら、一人で生きていくのがいいのか。
少なくともこれ以上、皇宮にはいたくない。
煜峰が目に映るたびに、心が乱れて苦しくなる。
嘔吐きながら泣く麗霞の肩を、皇太子妃がそっと抱き締めてくれる。
「も……申し訳ありません……ひっく……」
「いいのよ、沢山泣きなさい。それほど好きなのでしょう、その人のことが」
「はい」
「麗霞、やはり貴女は結婚するべきよ」
「で……ですが私は……」
「夫婦の形というのはそれぞれあるものよ。初めはそこに愛がなくたって、共に暮らしていくうちに愛情が芽生えることだってあるのだから。ねえ、桜綾」
「皇后様の言う通りよ。わたくしだって暁明様とはただの政略結婚だったわ。初めてお会いしたのは結婚式の日でしたもの。恋や愛が何なのかも分からないまま結婚したけれど、でも今は暁明様のことを誰よりもお慕いしているのよ。暁明様のいない世界など考えられないほどにね」
「麗霞も夫となった人のことをきちんと愛せるのか不安なのでしょう? でも大丈夫よ。他人のことを深く思いやれる貴女ならきっと」
皇后の話に大きく頷き返した皇太子妃は、麗霞に微笑みかけてきた。
愛らしい小花柄が刺繍された手巾で麗霞の濡れた頬を拭い、乱れた髪まで整えてくれる。
「そうだわ、麗霞。貴女にまだ、春画の御礼をしていなかったわね」
「……? お代ならもう頂きましたが」
皇后へ渡した絵の代金は、侍女からきっちり受け取っている。鼻を啜りながら皇后を見ると、ニンマリと笑っている。
コメント
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うわあ、第46話、切なくて胸がぎゅっとなりました……。麗霞が煜峰皇子とすれ違うたびに、昔の何気ない触れ合いを思い出して涙をこらえる場面、すごく伝わってきました。「ただの上司と部下」と言いながら、本心は全然違うんですよね。皇后と皇太子妃が「結婚しなさい」と優しく背中を押してくれるのも、彼女たちの人生経験に裏打ちされた温かさを感じて、じんわりきました。そして最後の皇后のニンマリ笑顔──何か名案があるんでしょうね。続きが待ち遠しいです!