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帝都の春は、桜が散ってもなお賑やかだった。
ある日、私は伊織様のお供をして、銀座の煉瓦街へと買い物に出かけた。
「紬、遅れるなよ。迷子になったら、今度こそ俺は助けないからな」
そう言いながらも、伊織様は何度も後ろを振り返り
私が人混みに流されないよう、さりげなく袖を引いてくれる。
その手つきは、かつて夜会で見せた「手慣れたエスコート」とは違い
どこかぎこちなくて、必死なものだった。
「はい、伊織様! 帝都の街は、本当に宝石箱をひっくり返したようで……あ!」
私が足を止めたのは、一軒の書店の前だった。
そこには、懐かしい顔が立っていた。
「……紬ちゃん!? 紬ちゃんじゃないか!」
「え!源さん!?」
駆け寄ってきたのは、私の実家の隣の家に住んでいたイケメン紳士で有名な幼馴染の源さんだった。
彼は職人修行のために帝都へ出てきていると聞いていたけれど、まさかこんな場所で再会できるなんて。
「元気だったかい? 帝都の暮らしはどうだい。辛いことはないか?」
「はい、おかげさまで! 旦那様がとてもお優しくて……」
「そうか、よかった。…紬ちゃんは相変わらず元気そうだね。安心したよ」
源さんは昔と同じように、私の頭をぽんぽんと撫でた。
実家のお兄ちゃんのような、懐かしくて温かい手。
私は嬉しくて、ついつい昔話に花を咲かせてしまった。
ところが。
「…………おい」
背後から、凍りつくような冷たい声が響いた。
振り返ると、そこには般若のような形相をした伊織様が立っていた。
「……伊織様?」
「紬。……その男は、誰だ」
「あ、実家の幼馴染の源さんです! 小さい頃、よく一緒に山を駆け回って……」
「山を、駆け回った……?」
伊織様の目が、ギラリと光った。
彼は大股で歩み寄ると、私の肩を抱き寄せ、源さんの手を私の頭から乱暴に払い除けた。
「な、なんだあんた」
「あんた、とは失礼だな。俺は、彼女の『夫』だ。九条伊織という名に、聞き覚えはないかな?」
伊織様は、冷徹な貴公子の顔で源さんを睨みつけた。
その瞳からは、火花が散りそうなほどの敵意が溢れ出している。
「伊織様、源さんはただの幼馴染で、挨拶をしただけですよ……?」
「ふん、紬。……帰るぞ」
「えっ!でもまだお買い物が……」
「帰る。今すぐだ!」
伊織様は私の手首を掴むと、引きずるようにして馬車へと連れ戻した。
馬車の中、伊織様は腕を組み、一言も発しない。
でも、その整った横顔は、これまでに見たことがないほど険しく、怒りに震えていた。
「……あの、伊織様?何が起こってます?」
「…………」
「あの、本当に源さんは、お兄ちゃんみたいな人で……」
「お兄ちゃん?」
伊織様が、弾かれたようにこちらを向いた。
その瞳は少し潤っていて、怒りというよりは、今にも泣き出しそうな子供のような必死さがあった。
「……俺以外の男に、あんな顔で笑いかけるな。あんな風に、触らせるな。……君は俺の妻なのに」
「伊織様……?私はあなたの妻ですよ?伊織様はちゃんと尊敬できる夫です」
「俺は……俺は、君に『尊敬』なんてされたくないんだ!ただ一人の『男』として、俺だけを見てほしいのに……っ」
伊織様は叫ぶと、私の肩に顔を埋めて、ぎゅっと抱きしめてきた。
心臓の音が、馬車の揺れよりも大きく響いている。
「……紬、君は本当に……卑怯だ。俺をこんなに余裕のない、惨めな男にしておいて…」
震える声。
私は、伊織様の広い背中にそっと手を回した。
旦那様は、あんなに格好良くて、何でもできる完璧な方なのに。
どうして私の前では、こんなに脆くて、愛おしい姿を見せてしまうのだろう。
「伊織様。……やっぱり凄いです」
「……また、それか」
「はい。…だって、こんなに私のことを大切に想ってくださっている。……私、そんな伊織様を、世界で一番……尊敬」
「……『尊敬』以外の言葉にしろと言っただろ」
「えへへ、すみません」
伊織様の耳が、またしても真っ赤に染まるのを見ながら
私は少しだけ、自分の胸の奥がくすぐったいような、甘い痛みを感じていた。
#シリアス