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#シリアス
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「……紬。今日は、銀座で一番の宝飾店と呉服屋を呼んである」
昨夜、あんなに子供のように取り乱して私を抱きしめた伊織様だったけれど
翌朝にはすっかり「完璧な貴公子」の仮面を被り直していた。
ただ、その瞳の奥には、どこか決死の覚悟のような光が宿っている。
「えっ、宝飾店ですか? 私は今の着物で十分満足しておりますが……」
「いいから座れ。これは、夫としての『義務』だ」
伊織様は強引に私をソファに座らせると、次々と運ばれてくる豪華な品々を指差した。
大粒のエメラルドが輝く首飾り
金糸をふんだんに使った豪華な振袖、フランス製の繊細なレースの扇。
「好きなものを選べ。……いや、全部買い上げてもいい」
「ええっ!? 全部だなんて、とんでもないですよ!」
私は椅子から飛び上がった。
これらひとつひとつが、私のような没落士族の娘には
一生かかっても手に負えないようなお値段なのは明白だ。
「伊織様、お気持ちは嬉しいですが……。これひとつで、田舎ならお米が何十俵、いえ、何百俵買えるか…そんな恐ろしいもの、身につけたら震えて歩けなくなります!」
「…君というやつは……普通こんなこと言われたら高いものをねだる女ばっかだぞ?」
伊織様は絶句した。
かつて彼が贈ってきた女性たちは、競い合うように高価なものをねだり
贈れば贈るほど「愛されている」と喜んでいたようだ。
でも、私にはどうしても、この美しすぎる宝石が「お米」や「炭」に換算されて見えてしまうのだ。
「紬。……俺は、君に喜んでほしくて用意したんだ。金の問題じゃない。俺が贈るものを受け取るのが、そんなに嫌か?」
伊織様が、少し傷ついたような、捨てられた仔犬のような目で私を見つめた。
「……嫌なはずがございません!伊織様が私のために、こんなに高価なものを選んでくださったこと。……その『お時間』と『お心』が、何よりも嬉しいので」
私は宝石箱をそっと閉じ、伊織様の手を両手で包み込んだ。
「やっぱり、凄いですね、伊織様」
「……また、それか。次はどんな『尊敬』が出てくるんだ」
伊織様は自嘲気味に笑いながらも、私の手を握り返す力に熱がこもる。
「こんなに贅沢なものを、惜しげもなく私に与えようとしてくださる。……それは、伊織様が誰よりも『与える喜び』を知っている、慈悲深いお方だからですよね」
「……ご自身の持ち物を誇示するためではなく、ただ私のために。…その高潔な精神、慈悲深くて尊敬します!」
「…………っ!!」
伊織様は、椅子から転げ落ちそうになった。
彼は顔を真っ赤にして、わなわなと震えながら、天を仰いで絶叫した。
「……違う!慈悲じゃない!慈愛でもない! 俺はただ、君を金と物で釣って、他の男を見ないように……俺に惚れさせようと必死なだけで!!」
「まあ…伊織様って謙虚なんですね。ご自身のことさえそうやって悪く仰って私を安心させてくださるなんて。……本当に、どこまでお優しいのですね」
「…………あああ、もう!! 誰か助けてくれ!!」
伊織様はついに、豪華な振袖の山に顔を埋めて悶絶し始めた。
彼はもう、かつてのスマートな口説き文句ひとつ思い出せない様子だ。
「伊織様、大丈夫ですか? お熱でも……」
「……寄るな! 今の君は、俺にとって最強の毒なんだ……。……紬、お願いだ。一度でいいから、『尊敬』じゃなくて…『好き』と言ってくれ……」
「えっ? もちろん、伊織様のことはお慕いしていますよ!尊敬する旦那様として!」
「……そうじゃない…そうじゃないんだ……っ!!」
宝石の輝きも、豪華な着物も、今の伊織様には何の助けにもならないようだった。
私は、のたうち回る旦那様の背中を
ただ優しくさすってあげることしかできないのだった。