カーテンの隙間から差し込む陽が、まだ眠るには早すぎるほどに強かった。
遥は目を覚ましていた。布団の中で、背を向けたまま、天井を見ないようにしていた。
静かだった。
隣の部屋からも物音ひとつない。日下部は起きているのか、まだ寝ているのか。そんなことすら、もうどうでもよかった。
身体は、少しは動くようになっていた。
それでも、玄関のドアを開けて、あの道を歩く気力は湧かなかった。
昨日の玲央菜の声が、どこかに残っていた。
──「明日も、休ませてやって」
──「……わかった」
何がわかったのか。
誰が、誰に、何を許したのか。
遥にはわからない。
ただ、起き上がらなかった。
その選択が許されている時間が、あとどれだけあるのか、それもわからなかった。
ドアの向こうで、ゆっくりと誰かが立ち上がる音がした。
食器のぶつかる音。水を流す音。
それが日常のはずなのに、遥にはどこか遠い出来事のように聞こえた。
数分後、ふとドアが開いた。
「……寝てる?」
日下部の声は無感情だった。
だが、気配だけは、布団の端まで届いた。
遥は返事をしなかった。動かなかった。
日下部はため息のように鼻を鳴らして、ドアを閉めた。
足音は遠ざかり、また、静寂。
何かをしてやろうという気配は、相変わらずなかった。
だが、何もされないことが、今は救いだった。
遥は、まぶたを閉じた。
眠るでもなく、起きるでもなく、その中間に身を置いた。
──まだ、行かなくていい。
その事実だけが、布団の中の全てだった。
冷房の音が低くうなっていた。
窓の外で蝉が鳴いているのが遠く、どこか嘘みたいに聞こえる。
遥はソファに体を沈めて、カップを両手で持っていた。
温度を感じることに意味があるわけじゃない。
ただ、手の中に何かを握っている、それだけが今は必要だった。
日下部は向かいの椅子に足を乗せ、スマホをいじっていた。
画面の中身は見えないが、何をしているのかも知ろうとは思えなかった。
「……今日、誰にも連絡してないの?」
遥の問いは、声というより、息に近かった。
「してない。する必要ある?」
「……親とか」
日下部は肩をひとつすくめた。
「放ってある。元々そういう家だし。オレがどこにいようが誰も気にしねぇよ」
言い捨てるような口調でもなければ、優しさでもなかった。
ただの事実。そう言ってるだけの声だった。
「……そっか」
遥は少しだけカップを揺らして、こぼさないように視線を落とした。
数秒の沈黙のあと、日下部が顔を上げた。
「おまえさ」
「……なに」
「なんで、そんなにちゃんとしてようとすんの?」
遥の手が止まった。
「は?」
「いや。昨日も、朝も。無理して起きて、“行く”とか、“迷惑かけてない”とか。……何の意味があんの、それ」
遥は答えなかった。
けれど、喉の奥が焼けるように熱くなっていた。
何かを言おうとするたび、全部、飲み込んでしまいそうになる。
「……意味とか、ねぇよ」
「だったら休めば?」
「言われなくても、休んでんだろ」
睨むような言葉だったが、視線は合わせなかった。
言葉の温度だけで守ろうとしているものがある。
そんなの、日下部にはとうに見透かされているようだった。
「……そろそろ、限界なんじゃねぇの?」
遥は、かすかに首を振った。
そして、かすかに口元が歪む。
「限界なんか、とっくに通り過ぎてるよ」
「だったら──もう、落ちろよ」
「……っ」
遥は、言葉を失った。
けれど、日下部は続けなかった。
そのままスマホを見ながら、口の端だけで笑った。
「落ちきれねぇやつって、一番おもしれぇな」
ぞわり、と遥の背中が冷たくなる。
それでも、逃げるように目をそらすのは悔しかった。
「おまえ、……ほんと、性格悪ぃよな」
「うん。知ってる」
その即答に、遥はもう何も言わなかった。
けれど、カップを置く手が、かすかに震えていた。