テラーノベル
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なぜか、苦しかった。
誰も何もしない。
誰も命令しない。
殴られないし、蹴られないし、黙って座っていれば、何も起きない。
それなのに――呼吸がうまくできなかった。
この家で、日下部は手を出してこない。
暴言も吐かない。
冗談まじりの脅しはあっても、本気ではないことくらい、わかる。
わかるのに。
ベッドの上で膝を抱えながら、遥は自分の指先を見つめていた。
薄い爪の間には、今朝、無意識に噛んだ痕が残っている。
指が震えていた。
震えている理由も、ちゃんとわかっている。
「……なんで、誰も来ないんだよ」
呟いた声は、誰にも届かない。
日下部は別の部屋で本を読んでいる。テレビもついていない。
冷蔵庫の音と、自分の呼吸音だけが、空間を満たしている。
静かすぎた。
気持ちが悪いほど、静かだった。
──何かされるほうが、まだ“まし”だった。
無音の中では、逆にいろんな音が聞こえてくる。
押し入れの中で漏れそうになった泣き声。
机の下で耐えた呼吸音。
掃除用具室の錆びた鍵の音。
誰かが笑っていた声。
自分が噛み殺した呻き。
そういうのが、全部、よみがえる。
目を閉じても、耳をふさいでも、肌が覚えていた。
「……いっそ、誰か来いよ」
声に出した瞬間、自分の言葉にゾッとした。
呼ぶな。
絶対に、呼ぶな。
けれど──その「誰も来ないこと」が、今は一番、怖かった。
自分がどうしようもなく“無力”だと、認識させられる静けさ。
誰の手にもかからず、ただ自分の体だけが残っているという残酷。
もし、明日になっても、誰も何もしてこなかったら?
笑われなかったら?
命令されなかったら?
殴られなかったら?
監視されなかったら?
──オレは、何になるんだ?
「オレ」は、“痛み”の中で形を保っていた。
嫌悪も、恐怖も、怒りも、憎しみも――全部、オレが生きてる証明だった。
でも、それを取り上げられたら?
「生きてる」のかすら、わからなくなる。
「……やっぱ、おかしいな、オレ」
かすれた笑いが漏れる。
誰にも見せるつもりのない笑みだった。
けれど、それでも、少しだけ“音”があったことに、安心している自分がいた。
痛みを失うことが、これほどまでに怖いとは思わなかった。
オレは今、
何にも縛られていない。
なのに、
自由が、
こんなにも――息苦しいなんて。
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