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「いってらっしゃい」と最後に言われたのは、いつだったか。もう、記憶の残滓すら怪しい。鉛のように重い足取りで家を出る。そして今日も高校に向かう。教室に入ると、頭の中で何かが爆発したかのように、喧騒が一気に膨れ上がりうるさくなる。それはただの音ではない。俺という存在を否定し、矮小化する無数の声の波だ。そのすべてが、鼓膜を通り越し、直接、俺の思考を叩く。その中には、松田の低く、優越に満ちた声が混じっていた。
「笹川く〜ん?」
薄ら笑いを浮かべたまま、松田が俺に問いかける。まるで世界の真理でも問うかのように。
「お前よ、自分の身分わかってんのか?」
お決まりの質問だ。これが彼らにとっての、朝の挨拶。俺にとっては、日常を生きるための通行手形だ。
「はい。僕は出来損ないの虫ケラです。どうか私めに、今日の役目を与えてくださいませんか」
もはや、嫌悪感すら湧かない。感情を殺し、まるでマニュアル通りに動く人形のように答える。
「よく言えました!えらいぞ!そうだな〜今日のお前の役割は…決めた」
松田は仲間内の田中を顎で指し、俺に対して吐き捨てるように言った。
「田中お前、こいつ殴れ」
その瞬間、田中から強烈な腹パンを食らった。胃液が逆流し、視界の端が白く飛ぶような激痛に、俺は声もなく悶絶する。
「今日のお前の役割は俺たちの生きたサンドバッグだ。いいな?」
「…わ…わかりました」
なんとか答えた。そうするしかなかった。
いつからこんなことになったのだろう。もう覚えていない。理由もわからない。ただ、アイツは昔から俺のことを、まるで呼吸をするように虐めていた。
担任に相談しても無視。小中高すべてのクラスメイトが、誰も俺たちに目もくれない。「自分は関係ない」とでも言いたげな、冷たい無関心という名の鉄壁を築き、一丁前に勉学に励んでやがる。馬鹿馬鹿しい。
俺はきっとこれからも、誰かに踏みつけられながら一人で生きていく。ああ、俺はそういう星のもとに生まれたんだ、そういう宿命なんだ。
「頭がうるさい……」
今日はいつもよりやけに、世界が騒がしく、そして虚ろに感じた気がした。
夕方。あざの増えた体を見ながら家に帰ろうとしていた。迎えてくれる人はいない。それでも、帰らなきゃいけない。生きるために。
「笹川くん」
後ろから声が聞こえた。女子の声。反射的に体が硬直する。
「…どうしたんだ?天乃」
問いかけると、天乃は少し遠慮したように俺に声をかけた。
「最近…その、体調は大丈夫かな、と」
場に静寂が流れる。女子と二人きり。松田あたりに見られたら、彼女の日常も俺と同じ地獄に引きずり込まれる。
「はっきり言うんだけどさ、俺に構うのはもうやめてくれないか。」
言いながら、胸にガラスの破片が刺さるような痛みを感じる。天乃の優しさは、俺の卑屈な殻を破る劇薬だ。彼女を遠ざけるこの言葉が、彼女を守る唯一の方法だと、俺は自分に言い聞かせた。また静寂が流れる。彼女は困った顔をしていた。俺はそれを無視して、逃げるように家に向かって歩き始めた。
「まって!笹川くん!」
……まだ何か言いたいことがあるのか。
「あのね。最近、頭がうるさいの。『笹川くんを助けろ』って、『助けられなきゃお前に価値なんてない』って……自分でも何言ってるかわかんないんだけど」
(要するに、俺への同情、気持ち悪い自己満足だろ?)
俺は心の中で悪態をついた。そう言うことにした。そうすることでしか、俺は自分と彼女を守れない。それ以上、彼女の言葉に耳を貸すこともなく、その場を後にした。
次の日、また学校に向かう。いつも通りの何も変わらない朝。世界は昨日と同じ顔をしている。
「笹川く〜ん?」
薄ら笑いを浮かべる松田。
「お前よ、自分の身分わかってんのか?」
お決まりの質問だ。
「はい、僕は出来損ないの虫ケラです、どうか私めに役目を____」
「ちょっと待って」
瞬間、鉄壁のような静寂を破って、天乃が割って入った。俺も松田も、おそらくその場にいる全員が、信じられないものを見るかのように天乃を凝視する。
「こんなの、こんなのっておかしいよ!なんでみんなは見て見ぬ振りできるの!クラスメイトが虐められてるんだよ!?」
松田が口を開く。その顔は、獲物を見つけた獣のようだ。
「それって要するによぉ〜」
意味ありげに天乃の身体を舐め回すように見て、松田が言う。その視線が、粘着質な唾液のように感じられた。
「自分が代わりにいじめられるので、笹川くんは許してやってくれってことで、合ってるかぁ?」
その瞬間、俺は叫んでいた。気づいたら、声が出ていた。
「天乃は関係ないだろ!」
すると松田とその取り巻きが、悪意のボルテージを上げた目で俺を見る。そしてケラケラと嘲笑しながら言った。
「お前らよぉ、もしかして付き合ってたりすんのか?だから必死にお互いを庇い合ってんのか?」
すると天乃が松田を睨みつけ、震える声で吠える。
「そんなんじゃない!私は一クラスメイトとして…」
松田はそれにかぶせるように、天乃より遥かに大きい、支配的な声で言った。
「おい聞いたか笹川よお。振られちゃったなぁ、可哀想に。」
「なっ!私に振ったつもりはないよ!」
松田は悪意の炎を絶やさない。
「よおし、笹川。お前に復讐のチャンスをやる。今、ここで天乃を殴れ」
天乃の声には耳も貸さず、俺を指差してそう言った。そして耳打ちで続けた。
「殴ったらこの一件はチャラにしてやる、天乃ちゃんを巻き込みたくなかったらな、一発天乃ちゃん殴ってこい」
俺はどうすればいいかわからなかった。
「ごぉ〜〜〜〜〜〜よ〜〜〜〜〜〜〜ん」
松田が、まるで処刑のカウントダウンのように数字をゆっくり数え始めた。
俺は反射的に立ち上がる。それが良くなかった。
天乃の目から涙が溢れた。それもただの涙じゃない。それは、どす黒く、粘度を持った黒い涙だ。
『こんなのおかしい、普通じゃない。わタシはたダクラスメイトを助ケたかっタだけなノニ』
何かがおかしい。天乃の声が二重に、遠近感のないノイズとして聞こえる。周囲の椅子がけたたましく鳴り響く。途端、変貌する。
彼女の体が歪に捻じ曲がり、伸びていく。もう天乃に人としての片鱗はない。まるで自己嫌悪を煮詰めた泥の塊のような何かが、「タすけて」「タすけて」と、うわ言を呟いているのがわかった。
「ば…化け物!」
松田が叫んだ瞬間、教室中は現実の輪郭を失い崩壊し始めた。全員が真っ先に教室から抜け出そうとする中、俺だけは、化け物と化した天乃から目を離すことができなかった。
パリィン
教室の窓が割れた。それは、天乃の『心の傷』が、この世界を侵食し始めた音。
そして、地獄が始まった。周囲の人間が途端に狂い出したんだ。
『自分は卑怯だ』
誰かが呟いた。それを皮切りに、普段おとなしかった優等生から、活発なクラスのまとめ役まで、一人一人が自傷行為を始めた。壁や床に頭を打ちつけ、爪を強く噛んで血を垂らす者もいた。
気がつくと教室から色が失われていた。すべてが灰色に染まった教室の中、彼ら自身の傷跡だけが、どす黒い生々しさをもって輝いているのがわかった。
田中が俺の足を掴む。
「俺は逆らえなかったんだ、あいつがやれっていうから、どうしても逆らえなかったんだ!許してください…」
自分の腹を掻きむしりながら呟いていた。
松田もおかしくなっている。彼の自傷行為は群を抜いていて、ガラスの破片が飛び散る床を転げ回り、全身血まみれになっている。
「オレガ…ワルイ…」
「なんなんだ…これは」
呆然としていると、割れた窓から自衛隊のような格好をした人間たちが現れた。
「目標確認!”クリエイター”に注意しながら学生たちの保護、避難をするぞ!」
「了解!」
彼らに抱き抱えられながら、松田や田中が教室から去っていく。
「………君、色があるな?」
言われて初めて、全てが灰色に染まった教室で、自分の体だけが鮮やかに色づいていることに気づいた。
「対話部隊!抗体持ちがいる!処遇は任せるぞ!」
「あいあい〜わぁりましたよ〜」
端末越しに、まるで公園のベンチで昼寝でもしているような、気の抜けたおっさん声が聞こえた。
そして、静寂は訪れる。
窓が割れてから、一瞬の出来事だった。今、この教室にいるのは俺と…化け物だけだ。
「たすケて…タすけてあげラレなかッタ……たすケてあげタかッタ」
化け物はうわごとの様に呟き続けている。すると廊下から微かに足音が聞こえるのがわかった。
「お、やってるね〜。まあまあまだマシな方かな?」
さっきの気の抜けたおっさんの声だ。おっさんは胸を張りながら、廊下と教室の間をひょいと移動した。
「失礼しますってか。学生時代を思い出すね。そんで、君が抗体持ちか。ふむふむ、なかなかに不運な人生だ。かわいそうに」
教室に入るなり、まるで俺の過去をすべて見透かしたようにおっさんは言った。失礼だな、と思ったが、言い返す気力は湧かなかった。代わりに、勝手に言葉が出た。
「俺は、笹川だ。それで、天乃がどうなっているのか、今は何が何だかわからない」
俺の頭は、情報過多でショート寸前だった。
「おーけー、自己紹介ありがとさん。ま、混乱するのも無理ないよなぁ〜。よし少年、端的に状況を説明するぞ〜?」
おっさんは飄々とした態度のまま俺に向かって言葉を吐いた。
「今、天乃ちゃんは病気にかかっている。君の知らない、ちょっと重めの病気だ。この病気にかかるとな、精神的な揺らぎが臨界点を超えて人が人じゃいられなくなることがあるんだ」
…は?病気?
「あの子は今、人じゃない。自分の感情を世界の形として出力する、一人の”クリエイター”だ。そして、そうなる引き金を引いたのが君だ、少年」
「待ってくれ、整理が追いつかない」
おっさんが難しそうに頭を掻きむしる。
「あー、ならもっとシンプルに言おうか。彼女、天乃ちゃんは君のことが好きだ。ただ、君は…彼女の好きな人はいじめられている。そして、彼女はそれに対して何もできない自分の無力感に耐えられなくなって泣き出してしまった。君は彼女になんて声をかける?」
わからない。わからないけど、俺の存在が彼女にとって重荷になってるなら、その重荷を下ろしてやりたい。
「俺の問題は俺一人でどうにかできる!放っておいてくれ!」
化け物の形が更に歪んだのがわかった。俺の言葉は、まるで燃料のように、彼女の傷を加速させた。
「言い方ってもんがあるでしょうよ。君も学ばないね〜」
馬鹿にした様に俺を笑った後、おじさんは天乃に向かって落ち着いた口調で話し始めた。
「いいかい、天乃ちゃん。君が好きになった男はろくでもないやつだぞ?とんでもなく卑屈な奴だ。地面に這いつくばって、人に踏まれることに慣れすぎた奴だ。でもな、君はあいつの持つ優しさに気づいていたんだろ?だから惹かれたんだろう?おじさんにはわかるぞ。誰もが否定していた彼のことを、君は誰かに認めて欲しかったんだ。そして、自分の抱えたその気持ち、恋路を、誰もが認めてくれる世界にしたかったんだよな」
「お前なンカにわかルものか」
化け物が口を開く。わずかに身体の輪郭が見えた、歪だった形が元に収まっていく。言葉が、世界を修復している。
「いーや。おじさんはね、だいたいわかっちゃっうんだ。そして、少年のことはさっき認めた。ちょっと口下手だが、優しくていい子だ。君には人を見る目があるよ。若いのによくやっている。これまでよく頑張ってきたね」
天乃がみるみるうちに人の形に戻っていく。
「おかえり、人間の世界へ」
おじさんは満足げに呟いて、気を失っている様に見える天乃を抱き抱えた。
「あんたは……何者なんだ?」
「しがないおじさんだよ〜。ちょっと変わったところがあるとすれば人の”人生観”とか、”心の傷の形”みたいなのがパッと見るだけでわかるんだ」
嘘を言っている様には見えない。
「ところで少年、その口下手はどうにも生きづらいだろう。そこでおじさんからスカウト。せっかくの抗体持ちだ。君も対話部隊に入らないかい?」
名刺を渡された。
「概念座標保全局…」
聞いたこともない。
「君は人としてまだまだ成長できるぞ?どうだ、おじさんの弟子にならないか?」
俺は、自分の人生は他人に踏みつけられるためにあるのだと思っていた。もう誰かのサンドバッグは嫌だ。子供っぽいけど、願うなら、誰かを救う、誰かの希望になりたい。
「あんたは、人を救う仕事をしてるのか」
「ああ、そうだな。壊れた心を、元の座標に戻す仕事だ。」
俺はその言葉を、まるで自分自身の座標を定めてもらえるかのように感じた。
「俺にも…なれるか?」
「きっとなれるさ」
「なら俺を、おっさんの弟子にしてくれ」
「はっはっは、少年よ、出会い頭に人をおっさん呼ばわりは良くないぞ。ただ、もちろんだ!おじさんが君を、立派な大人にするとも」
そう言って笑うおっさんの背中が、俺にはやけに大きく見えた。