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崖下の洞窟の中、奇跡的に軽傷で済んだルツィエは、自分を庇ったせいで大怪我を負った彼を抱きかかえ、必死に呼びかけていた。
「しっかりしてください……! どうかお願いします、皇太子殿下……!」
「うっ……」
落下の際、アンドレアスがルツィエを抱きしめてくれたおかげでルツィエに怪我はほとんどないが、代わりにアンドレアスが傷だらけになってしまった。それに崖の破片で頭を打ったのか、意識が朦朧としている。
(どうしよう……神宝花を使えば、この大怪我でも治せるはず。でも……)
アンドレアスは自分の身の危険も顧みず、こんな状態になってまでルツィエを助けてくれた。だから神宝花の力で助けられるなら助けてあげたい。
でも、そうしたら神宝花の在処を彼に知られることになる。彼は良心的な人物だと思うが、神宝花の在処を知ったらどうなるか分からない。
アンドレアスを助けるか、神宝花を守り抜くか。
(私はどうすればいいの……?)
そのとき、意識半ばだったアンドレアスの瞳が大きく見開かれた。そしてルツィエの顔をまじまじと見つめる。
「ルツィエ……」
「皇太子殿下……!? お身体は大丈夫で──」
アンドレアスの意識が戻ったことにほっとして気を緩めると、彼は突然起き上がってルツィエの腕を掴み、そのままルツィエを地面に押し倒した。
「痛っ……何をするのですか……!?」
いつもの彼からは考えられない暴挙に驚いて声を上げると、アンドレアスはにやりと残虐な笑みを浮かべた。
「たしかにこれは捕虜として連れ帰りたくなるな、ルツィエ」
「……っ」
アンドレアスの赤い瞳がぎらぎらと凶暴に輝く。
これまで彼を見て恐怖なんて感じたことはなかったのに、今の彼からは危険な匂いしかしない。まるで別人のようだ。
「……あなたは誰?」
「愚かな質問だ。俺は皇太子アンドレアス──……」
次の瞬間、アンドレアスは突然ルツィエの拘束を解き、身体を反転させて地面に勢いよく倒れ込んだ。荒く息を吐きながら、ルツィエと距離を取って壁に寄りかかる。
「ハァッ……すまない、ルツィエ王女……」
その声音とルツィエの呼び方に、ルツィエは彼が正気に戻ったことを悟った。
「皇太子殿下……お身体は大丈夫ですか?」
「俺は大丈夫だ。それより、そなたに怖い思いをさせてしまった。……本当に申し訳ない」
どうやら、先ほど暴走した自覚があるらしい。
ルツィエはアンドレアスと距離を保ったまま尋ねた。
「先ほどは急に人が変わられたようで驚きました。一体どうなさったのですか?」
「それは……」
アンドレアスは返事をしようと口を開いたあと、しばらく悩む様子を見せ、結局ゆるゆると首を横に振った。
「すまない、そなたに教えることはできない」
「そうですか……」
「本当に申し訳ない。でも、どうしても言えなくて……」
「謝らないでください。いずれにせよ、殿下は私の命の恩人です。助けてくださって本当にありがとうございました」
「いや……そなたが無事でよかった」
アンドレアスの目が優しく細められる。
そこには、先ほど感じた凶暴な色は欠片も見つからなかった。
「いずれ、救助隊が来て見つけてくれるはずだ。それまでここで待っていよう」
「はい、分かりました」
そうして、おそらく数時間が経った頃、アンドレアスが言ったとおり救助隊が到着し、ルツィエとアンドレアスは無事に皇宮へと帰還したのだった。
◇◇◇
その日の夜、皇宮の医務室で怪我の治療を終えたルツィエのもとをヨーランが訪れた。
「……ルツィエ」
「殿下……。この度はご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」
「いや……怪我は大丈夫なのか」
「はい、幸い軽傷で済みました」
「そうか、よかった……」
ヨーランが酷く青褪めた顔で呟く。
危険な場所に連れていったことに責任でも感じているのだろうか。
(……なんて、まさかこの男がそんなことを思うはずないわね)
ヨーランが何も言わずにルツィエを見つめるばかりなので、ルツィエは仕方なく彼に話しかけた。
「あの、殿下。今日はもう離宮に戻って休もうと思います」
「あ……そうだな。では離宮まで送ってやる」
「いえ、大丈夫です。殿下はお忙しいでしょうし、誰か別の人に頼んでいただければ……」
「駄目だ、僕が送る。……お前は僕のものなんだから」
「……分かりました。ありがとうございます」
ヨーランが馬車の手配を使用人に言い付けたあと、ルツィエの隣に腰かける。固く握りしめた拳はわずかに震え、青い血管が浮かんで見えた。
◇◇◇
ルツィエを離宮に送ったあと、ヨーランは帰りの馬車の中で酷い震えに襲われていた。先ほどようやく落ち着いたと思ったのに、あのときのことを思い出すだけで、氷の海に落とされたように全身が凍えて震えが止まらなくなる。
ルツィエとの外出は、最初は本当に平和な時間だった。
ヨーランが選んだ場所をルツィエは一目で気に入ったようで、無垢な表情で花畑を眺めていた。
やはりここに連れて来て正解だったと思っていると、彼女がふいにこちらを向いた。
その瞳には星の輝きのような光が宿っていて、そんな眼差しを向けられたのは初めてだったから、直視することができなかった。
急に息が苦しくなり、思わず顔を逸らしてしまった。ルツィエに無様な姿を晒したくなかった。
でも、そのあと急にルツィエが沈んだ顔をしたからどうしたのかと心配になると、あの男──皇太子アンドレアスがやって来た。
卑しい男のくせに澄ました顔で兄面をしていることだけでも忌々しいのに、皇宮庭園に続いて花畑でまでルツィエとのひとときを邪魔されて頭に血が昇った。
それでルツィエのそばを離れたら、まさかあんなことになるなんて……。
たしかにこの花畑は危険だと侍従に忠告されていた。
しかし、自分を馬鹿にするような目つきが気に入らず、忠告を無視して出かけてしまった。
今日に限って崖崩れが起こるなんてあり得ないと思っていた。
だから、崖が崩れて落下していくルツィエを目にしたとき、頭が真っ白になって動けなかった。
そしてルツィエを追いかけてあの男まで落ちていったのを見て、頭の中はもっとぐちゃぐちゃになった。
なぜあいつがルツィエを。自分はどうして奴に後れをとってしまったのか。あいつがルツィエを助けてくれるだろうか。だが、そうしたらあいつはルツィエの命を救った恩人になってしまう……。
そんな思考に頭の中を埋め尽くされ、何もできずにいると、使用人たちが崖下に救助隊を送り、ルツィエを見つけてくれた。
ルツィエが見つかるまで得体の知れない恐怖に支配され続け、彼女が無事に手元に戻ってきたとき、やっとその恐怖から解放された。
でも、ルツィエの身体にできた擦り傷を見た途端、収まったと思った震えが蘇った。
あんなに華奢な身体を粗い岩石が掠めたなんて。
少しでもずれていればルツィエは命を落としていたかもしれない。
人間なんて剣を刺しただけで死んでしまうのに。
ルツィエが死ぬことを考えたら、目の前が真っ暗になった。
もしルツィエを失ってしまったら、自分は一人になってしまう。
自分を愛してくれる人がいなくなってしまう。
そんなのはだめだ。
ルツィエを失うなんて、あってはならない。
「……ルツィエは、僕のものなんだ」
ヨーランは一人きりの馬車の中で苦しげに呻いた。