テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
それからの日々は、
想像していたよりも、ずっと静かだった。
朝は、紬から「起きたよ」のメッセージが来る。
夜は、僕から「今日はどうだった?」と送る。
それだけで、
一日が、なんとか形を保っていた。
最初のうちは、紬はよく話した。
「新しいカフェ見つけた」
「駅前の桜、もう咲きそう」
「昨日、ちょっと泣きそうになったけど、我慢した」
最後の一文が、
冗談みたいについてくることが多かった。
「我慢しなくていい」
そう返すと、
決まって少し時間が空いてから、
「大丈夫だよ」
と来る。
その「大丈夫」が、
どんな顔で打たれているのか、想像してしまう。
⸻
僕の生活も、動いていた。
新しい職場、知らない街、
名前を覚えるだけで精一杯の日々。
忙しさは、
考える時間を奪ってくれる。
それでも、
夜、部屋の電気を消すと、
決まって思い出す。
駅のホームで、
泣かなかった紬の顔。
あれは、強さじゃない。
耐えることを、選んだ顔だった。
⸻
転勤してから、一ヶ月。
紬からのメッセージが、少し減った。
返事は来る。
でも、短い。
「うん」
「そうだね」
「今日はもう寝るね」
電話をかけようとすると、
指が止まる。
「忙しいかも」
「無理させたくない」
そんな言い訳を、
自分に向けて並べてしまう。
ある夜、
思い切って電話をかけた。
数回のコールのあと、
出た。
「……もしもし」
声が、少し掠れている。
「起こした?」
「ううん、起きてた」
間。
「どうしたの?」
「声、聞きたくなって」
正直に言うと、
また少し間が空いた。
「……そっか」
そのあと、
何を話したか、よく覚えていない。
天気のこと。
仕事のこと。
どうでもいい話。
でも、最後に紬が言った。
「ねえ、陽介」
「うん」
「今週さ」
少し、迷う気配。
「会いに来ない?」
胸が、一気に温かくなる。
「行く」
即答だった。
「無理じゃない?」
「無理じゃない」
「……ありがとう」
その声が、
ほんの少し、泣きそうだった。
⸻
久しぶりに会った紬は、
少しだけ、痩せていた。
駅の改札で目が合った瞬間、
一瞬、動きが止まる。
それから、
ぎこちなく笑った。
「久しぶり」
「うん」
近くにいるのに、
距離の取り方が分からない。
歩きながら、
紬はよく喋った。
最近の仕事。
同僚の話。
新しく飼い始めた観葉植物。
でも、
どこか息継ぎみたいで、
止まると崩れそうだった。
夜、紬の部屋。
並んで座って、
テレビをつけているのに、
どちらも画面を見ていない。
「ねえ」
紬が言う。
「私さ」
少し、間。
「強くなったと思う?」
その問いに、
すぐ答えられなかった。
「……前より、頑張ってる」
そう言うと、
紬は小さく笑った。
「それ、褒め言葉?」
「うん」
「そっか」
しばらくして、
紬は続けた。
「でもね」
視線を落としたまま。
「夜になると、急に怖くなる」
胸が締まる。
「何が?」
「分からない」
首を振る。
「一人でいる感じが、急に現実になる」
「……うん」
「陽介の生活が、私なしでも回ってるって思うと」
言葉が、詰まる。
「置いていかれた気がする」
あの夜、
布団の中で言えなかった続きを、
今、言っているみたいだった。
「置いていかれてない」
「頭では分かってる」
「でも」
紬は、やっと僕を見る。
「心が、追いつかない」
その正直さに、
逃げ場がなくなる。
僕は、紬の手を取った。
「遅れてもいい」
「え?」
「追いつくのが、遅れてもいい」
指を絡める。
「それでも、待つ」
紬の目が、揺れる。
「……私、泣いていい?」
「いいよ」
次の瞬間、
紬は声を殺して泣いた。
肩を震わせて、
必死に堪えながら。
泣き声を聞くたび、
来てよかったと思った。
⸻
帰る日。
駅までの道で、
紬は少しだけ、穏やかだった。
「来てくれて、ありがとう」
「当たり前」
「……また、強がると思う」
「知ってる」
「そのときは?」
「会いに来る」
紬は、少し困ったように笑った。
「簡単に言うね」
「簡単じゃないけど」
改札の前。
今度は、
紬が先に言った。
「行ってらっしゃい」
「うん」
「ちゃんと、帰ってきて」
「ちゃんと」
離れる直前、
紬は小さく言った。
「待ってるって言うの、やめないから」
胸の奥が、熱くなる。
「ありがとう」
⸻
離れていても、
すべてがうまくいくわけじゃない。
紬が、また強がる日も来る。
僕が、すぐに行けない夜もある。
それでも。
泣かなかった駅のホームも、
泣いた夜の部屋も、
全部、紬だ。
「大丈夫じゃない」と思った瞬間に、
名前を呼んでくれるなら。
僕は、何度でも会いに行く。
距離が、
二人を試すものだとしても。
それが、
離れる理由にはならない。
コメント
2件
遠距離恋愛か...