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作業所から帰ってきたとき、ポケットの中で樹のスマートフォンが着信を告げた。
しかし音は鳴らない。バイブレーションと同時にライトがつくように設定していた。
『元気か?
母さんずっと心配してるぞ
たまには家に帰ってこいよ』
送り主は兄だ。家族から離れて一人暮らしをしたがっていた樹のことを、母や兄は気に掛けている。
でもその優しさが、樹にとっては重かった。返事はせず、電源をオフにする。
家族の中で唯一ろう者。誰の声も知らない。だから家族は自分のために手話を覚えた。疎外されていると思わせないように。
ろう学校を卒業して、親元を離れここクラリティに入った。先生が探してくれたのだ。
すると、同じような境遇のメンバーに出会った。障がいを持つがゆえに、持たない家族との間に亀裂を抱えるみんな。
彼らは家族よりも心を許せて、家族よりも心地いい関係。
新しい家が見つかったような気持ちだった。
だから、できることなら出たくない。いつかは自立しないといけないことはわかっているけど、どうしてもみんなと一緒にいたかった。
樹は兄に『わかった』とだけ返信して、ゲームをしようとアプリを開く。
しかし次の瞬間、画面が暗くなる。
(最悪、充電切れた…)
樹はスマホをベッドに放り投げた。充電ケーブルに繋ぎ、置いて立ち上がった。特にやることがないから、多目的ルームに行こう。たいていは誰かが何かをしているはず。
廊下を進み、階段を下りる。しかし、スタッフが掃除をしているだけでそこはがらんとしていた。
(あれ、いないじゃん)
『どうしましたか』
スタッフが、簡単な手話で訊いてきた。
樹は首を振る。特に何ということはない。そのままウォーターサーバーで水を飲み、自室に戻ろうとしたとき。
「じゅりくん」
エレベーターのほうから北斗の声がした。しかし樹が気づくことはなく、北斗は無視された理由が理解できずに立ち尽くす。
スタッフが慌てて追いかけ、樹の視界に入った。手で示した方向を見て、相好を崩した。ルームに置いてあるスケッチブックを手に取り、ペンで筆談をする。
『どうしたの』
北斗は差し出されたペンを受け取った。『さみしいからおへやに来てほしいです』
そのやや拙い字を見て、樹の唇がゆがむ。少し悲しくて、愛しかった。
樹はうなずく。ニコリと北斗が笑って、てとてとと歩き出す。
案内された北斗の部屋は、きちんと整頓されていた。樹は自分のとの綺麗さの違いに驚きつつも、ベッドに腰かけた北斗の隣に座る。
北斗は、スケッチブックに書き込んだ。
『じゅりくんはどうしてしゃべらないの?』
樹の笑みが薄くなった。しかし微笑みをなんとか維持し、ペンを持つ。
『耳がきこえないんだ。だから、しゃべりかたもわからない』
北斗の不思議そうに丸くなった瞳を見るのがいたたまれなくて、思わず目をそらした。
『こうして文字でおしゃべりしてくれるかな?』
うんっ、と首を振った北斗に、樹も明るい笑顔を取り戻した。
『北斗くんはなにがすきなの?』
『おりょうりとおえかき』
『じゃあ、絵をかこう』
それから2人は、北斗の好きなお絵描きをして楽しんだ。
『これはもしかして花火?』
北斗が描いた絵のとなりに、樹が黒の色鉛筆で書く。
花火大会へと行き先の決まった夏休み旅行は、もう来週に迫っていた。
『そうだよ』
真っ白い紙の上に、無邪気に咲いた色とりどりの花火。樹が笑ったとき、「ふふっ」と息のような声が漏れた。
「…!」
北斗が瞬きを繰り返して樹を見つめる。同い年の彼に凝視されて恥ずかしくなった樹は、また噴き出すように笑う。
北斗も樹も、胸の内に萌芽したこの何とも言えず嬉しい感情が何なのか、わからなかった。
ただただこの時間が長く続けばと願うだけで。
続く
コメント
1件
読み終わりました。樹くんがろう者で、家族の優しさが重く感じられる胸の内がとても丁寧に描かれていましたね。特に北斗くんとのスケッチブックでの筆談、樹くんが「ふふっ」と息のような声を漏らした瞬間、あの何とも言えない温かい感情が伝わってきてぐっときました。「新しい家が見つかったような気持ち」という一文が、このクラリティという場所の空気を全部説明してくれているようで、素敵だなあと思いました。