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真帆は約束どおり、夫の航平へ不倫と胎児の父親を告げた。
翌日、橘の事務所を通じて面会を求められた。
私は一人では会わず、橘の同席を条件に応じた。
会議室へ現れた航平は、目の下に深い隈を作っていた。椅子へ座っても背中を預けず、両手を膝の上で握っている。
「妻から聞きました。お腹の子は、僕の子ではないと」
「はい」
「久世先生は、いつ知ったんですか」
「診察で疑いを持ち、担当を外れたあと、私生活上の会話で本人から確認しました」
「僕には、もっと早く知らせてほしかった」
そう言われても仕方がない。頭では分かっていた。
でも、航平の掠れた声を聞くと、胸の奥が痛んだ。私も騙されていた。それでも、彼が何も知らない時間を延ばした一人ではある。
「申し訳ありません。医師として得た情報と、妻として知った事実を分ける必要がありました。それでも、あなたが知らない時間を延ばしたことは事実です」
俯いたまま、しばらく黙った。
「真帆から、あなたも被害者だと聞きました。責める相手を間違えたくはない。でも……僕は名前まで考えていたんです」
掠れた声だった。
「健診の写真を見て、心臓が動いていると聞いて。自分の子だと思って、会社の制度も調べた。なのに、その写真を本当の父親にも送っていた」
鞄から一冊の手帳を出した。
出産予定日の周辺へ休暇の候補日が書かれている。保育園の見学日、ベビーベッドの寸法、妻のつわりが強かった日の食事。
「真帆は、僕が細かすぎると笑っていました。でも、嬉しかったんです。結婚して三年、やっと家族が増えると思った」
頁をめくる指が震える。
「妊娠が分かった時期、僕たちは何度か関係を持っていました。だから疑わなかった。父親が誰かは、出生後に検査しなければ確定できないと弁護士から聞きました」
「はい。今は、遼介の子である可能性が高いという本人たちの認識です」
「真帆は、遼介さんとの日付を記録していた。排卵日まで計算して、自分から妊娠しようとしたと」
「偶然ではなかったんですか」
「子どもができれば、久世先生が奥さんと別れると思ったそうです」
前年の化学流産まで、急に別の意味を持ち始めた。
あの時も、真帆は遼介の子かもしれないと思っていたのだろうか。妊娠すれば選ばれると考えたのは、今回が初めてではなかったのかもしれない。
そこまで考えて、背中が冷えた。
「去年の陽性反応については?」
「僕の子だと思っていました。真帆は、遼介さんの子だったかもしれないと言っています」
航平の声が震えた。
「僕は、失った子どものことで一緒に泣いた。自分の子ではなかったかもしれない。それでも、あの時悲しんだ気持ちまで偽物になるんでしょうか」
「なりません。誰の子かと、あなたが父親になる未来を失って悲しんだことは別です」
「でも、何も知らなかった」
「知らされなかった中で、本気で大切にした。それを真帆の嘘へ渡す必要はないと思います」
手帳を閉じた。
「離婚すると決めたら、周りから冷たいと言われるでしょうね。妊娠中の妻を捨てるのかって」
「全員へ事情を説明する必要はありません」
「会社には、もう妊娠を報告してる。両親も孫を待ってる」
「一人ずつ、必要な範囲で伝えるしかないと思います」
「久世先生も、こういう怖さを真帆へ使ったんでしょうか。今さら夫へ本当のことを言えば、全てを失うって」
そうかもしれないとは思った。
でも、私がそう思うことと、本当に遼介が何を言ったかは別だ。今ここで、推測を事実みたいに口にしてはいけない。
「それは、真帆本人と記録で確認することです」
「あなたは、医者だから冷静なんですか」
「いいえ。冷静に見える話し方をしているだけです」
初めて、僅かに口元を緩めた。
「では、僕も今日は、落ち着いているふりをします」
私は何も言えなかった。
「真帆は離婚を望んでいます。久世先生が奥様と別れ、自分と子どもを迎えると信じている」
「遼介は私には、離婚しないと言っています」
「では、真帆は何を待っていたんでしょう」
私にも分からない。
橘が会話を引き取った。
「今後、離婚や親子関係については、それぞれ弁護士を通してください。高瀬先生の離婚手続きへ使用する資料についても、水野さんが任意で提供できる範囲を確認します」
真帆から見せられた遼介のメッセージを保存していた。
『君だけが本当の俺を分かってくれる』
『千紘とは夫婦として終わっている』
『子どもが生まれたら必ず責任を取る』
私は莉央から届いた画面を開いた。
『君だけが本当の俺を分かってくれる』
『千紘とは夫婦として終わっている』
『子どもができたら必ず責任を取る』
最後の一語以外、句読点まで同じだった。
「同じ文章ですね」
航平の呟きが落ちた。
「真帆は、自分にだけ向けられた言葉だと思っていた」
「莉央もです」
自分のスマートフォンで検索すると、交際を始めた頃の遼介からのメッセージが見つかった。
『千紘だけが、本当の俺を分かってくれる』
私が最初に受け取ったと思っていた言葉も、形を変えて使い回されていた。
橘が三つの画面を日付順に並べた。
「ご主人は、相手ごとに新しい言葉を作っていない。同じ不足感を示し、相手を唯一の理解者に置く方法を繰り返しています」
「僕は、真帆が自分を必要としてくれていると思っていました。実際は、久世先生に選ばれるまでの安全な場所だった」
「私も、遼介にとって同じだったのかもしれません。病院を継ぐための安全な妻」
どちらがより傷ついたかを比べても仕方がない。
それでも、自分だけが愚かだったわけではないと知ると、ほんの少しだけ息がしやすくなった。
そんなことで楽になる自分を、責める気にもなれなかった。
航平は、真帆との離婚を進めると告げた。
「子どもに罪がないことは分かっています。でも、自分の子として育てる約束はできない」
「その判断を責めるつもりはありません」
「出産までの生活費や、必要な医療費については弁護士と相談します。ただ、父親として扱われ続けることは拒否します」
その日の面会を終えたあと、橘と証拠の整理を続けた。
私の当直日。
真帆とのホテル利用。
莉央との外泊。
交際アプリの利用料と複数女性への送金。
桐生沙耶への七年間の定期送金。
並べてみると、遼介の女遊びは偶然の連続ではなかった。私の勤務予定を利用し、関係が重ならないよう時間と金を配分している。
「先生が仕事ばかりで寂しかったという説明とは逆ですね」
一覧へ指を置く。
「ご主人は、先生が当直へ入る日を好都合として使っています」
「私には、キャリアを大事にしてほしいと言っていました」
「久世記念病院の計画にも、先生が現役で働き続けることが必要だったのでしょう」
妊娠を待とうという言葉まで、別の意味を持ち始める。
私を思いやっていたのかもしれない。
同時に、病院再建に使える産婦人科医を休ませたくなかった可能性もある。
いっそ全部が嘘だったなら、もっと簡単に憎めたのかもしれない。
愛情もあった。打算もあった。その二つが混ざっているから、どこまで信じてよかったのか分からなくなる。
続けて、橘が別の資料を開く。
「桐生沙耶さんへの送金は、毎月十万円。年に一度だけ三十万円へ増え、摘要は供養料。開始は七年前です」
「真帆が持ってきた手術の写しと同じ時期です」
「本人の任意の証言がなければ、中絶の経緯までは扱いません。まず、接触方法を慎重に考えます」
そこへ、私の院内メールへ通知が入った。
差出人は桐生沙耶。
『共有口座まで調べたんですね。話したいなら、あなた一人で来てください』
続けて届いた二通目には、古い超音波写真が添付されていた。
『この子の父親も、久世遼介です』
コメント
1件
いやあ、第十六話も重いですね……。航平が「悲しんだ気持ちまで偽物になるんでしょうか」と訊くところ、本当に胸にきました。誰の子かと、彼が父親になる未来を失って悲しんだことは別だ、という千紘の返答も誠実で。そして「君だけが本当の俺を分かってくれる」の使い回し――あれで千紘も自分だけが特別じゃなかったと知る寸法、すごく効いてます。最後の桐生沙耶からの超音波写真、「この子の父親も、久世遼介です」って、また新たな真実が顔を出してきましたね。続きが気になる……。
#復讐
神崎
48
白波 灯
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