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沙耶と話す前に、橘へ相談した。
院内で一対一にはならず、私的な面談として記録を残す。医療情報の提出を求めず、本人が話した内容だけを扱う。橘から示された線を守り、病院近くの貸会議室を予約した。
沙耶は時刻どおりに現れた。
病棟で見る彼女は、患者から信頼される助産師だった。陣痛に怯える妊婦へ呼吸を教え、若い職員が迷えば根拠を尋ねる。感情で人を責める姿を、私は見たことがない。
机の上へ置かれた古い母子手帳だけが、いつもの彼女と結びつかなかった。
「録音します」
「構いません。私もします」
スマートフォンを置いた。
「共有口座から、七年間の送金を確認しました。年に一度の供養料について、話してもらえますか」
「遼介先生の子を妊娠したのは、七年前です」
迷いのない答えだった。
「当時、遼介は独身?」
「はい。私は婚約していました」
「婚約者へ隠して関係を持った」
「そうです。遼介先生と一緒になるつもりで、婚約は解消しました」
沙耶は、自分だけが被害者だとは言わなかった。
その点だけは、真帆や莉央よりも現実を見ているように思えた。だからといって、私が傷つけられた事実まで軽くなるわけではないけれど。
「婚約者には、別に好きな人ができたと伝えました。慰謝料も払った。両親には縁を切られました」
「その後、遼介と結婚する話は進んだ?」
「進みませんでした。父親に認められるまで待ってくれ、と」
母子手帳の間から、古い賃貸契約書の写しを出した。
「二人で暮らすために借りた部屋です。遼介先生は、一度も住みませんでした」
「家賃は?」
「私が払いました。来月には移る、医局の人へ見つからないようにしろと言われて、二年待った」
家具の購入記録、二人分の食器、男性用の寝具。
一緒に暮らした証拠ではなく、暮らす予定を一人で維持した記録だった。
「職場では、誰かに相談しなかったんですか」
「当時の私は助産師になって三年目でした。遼介先生は医師で、院長の息子。妊娠したと言えば、既婚の婚約者を裏切った私が責められると思った」
「実際、婚約者はいた」
「はい。だから、自分にも非がある。被害者だと言えば、都合が良すぎると思っていました」
自分にも悪いところがあった。だから、何をされても訴える資格がない。
沙耶は、ずっとそうやって自分を黙らせてきたのだろう。
遼介は、その罪悪感まで都合よく使ったのかもしれない。
「中絶後、仕事へはいつ戻った?」
「三日後です。人手が足りなかったから」
「身体は?」
「出血が続きました。患者さんへ授乳を教えて、赤ちゃんを抱いて、夜になると借りた部屋へ帰った」
あまりにも淡々と話すから、かえって胸が苦しくなった。
三日後に職場へ戻り、他人の赤ちゃんを抱いた。その時、沙耶はどんな顔をしていたのだろう。
「その経験が、助産師としての仕事へ影響したことは?」
「一度だけ、新生児を抱けなくなりました。上司には体調不良と伝えて休んだ。それからは平気です」
「本当に?」
「平気になるしかなかった」
白波 灯
219
鬼霧宗作
303
私が真帆の検査で集中を失った時と、同じ言葉だった。
平気になるしかない。そう言って働き続ければ、本当に平気になれると思ってしまう。
でも、消したつもりの感情は消えない。別の場所へ押し込まれて、いつか思いもしない形で溢れる。私にも、それはもう分かっていた。
「七年間、誰にも話さなかった?」
「供養をお願いした寺の住職だけです。水子という呼び方をされるのも嫌で、名前を付けました」
「名前?」
「遼介先生には教えていません。あの人は、命日だけ覚えていれば父親の責任を果たしたつもりになるから」
母子手帳を開く。
表紙の裏へ、小さな文字で一つの名前が書かれている。
「この子を失ったことと、私が先生の夫と関係を続けたことは別です。分かっています。でも、切り離したら、私には何も残らなかった」
沙耶は、失った命を遼介との繋がりに変えなければ、抱えていられなかったのかもしれない。
そうしなければ、自分が選んだ中絶も、七年間待ったことも、全部無意味になってしまうから。
「妊娠を伝えた時、喜ばれましたか」
「最初に言われたのは、今は困る、でした。医局での将来も、父親の病院も失う。産むなら二度と会わないと」
「中絶を選んだ」
「捨てられるのが怖くて、自分で予約しました。手術の日も一人でした」
「遼介は?」
「学会の準備があると言って来ませんでした」
沙耶の指が母子手帳の角を撫でる。
「費用は後から振り込まれました。翌年から、命日の近くに供養料も。忘れていないと示すために、自分から送ると言ったんです」
「それで関係を続けた?」
「次は必ず産ませる。地位を得たら迎えに行く。そう約束されたから」
古いメッセージを見せられる。
『今は二人の将来のために諦めてほしい』
『医局で認められたら迎えに行く』
『次は必ず産ませる』
その後も、会う約束と送金の履歴が続いている。
「中絶後に離れようとは思わなかった?」
「離れたら、あの子を失ったことまで無意味になる気がしました。私が待って、最後に妻になれれば、あの時の選択は二人の未来のためだったと信じられる」
「私との結婚を知った時は?」
「医師の妻が必要なんだと言われました。病院を継いだあと、私を迎えると」
「義父は私との結婚に反対していました」
沙耶の目が揺れた。
「医師の家系ではない。派閥外の大学だと。遼介は父親へ逆らって結婚したと、周囲には見られていました」
「そんなはず……私には、女医なら父親も納得するからと」
「両方に、都合のいい部分だけを話したのでしょう」
椅子へ深く座り直した。
「では、私が待った七年は何だったんですか」
「私には決められません」
「先生が妻になったから、私は待たされた」
「私がいなくても、遼介は別の理由を作ったと思います」
「それでも、妻の場所にいたのは先生です」
「私を追い出せば、失った子どもが戻る?」
指が止まった。
「戻りません。でも、私が間違っていなかったと思える」
「そのために、私との結婚後も関係を続けた」
「はい」
短い返事だった。
「あなたが遼介から圧力を受けたことと、既婚者だと知って関係を続けたことは別です。前者には同情します。後者については、慰謝料請求の対象として弁護士と検討します」
「正しいですね、先生は」
「正しさを競っているんじゃない。被害を受けたことが、別の人を傷つける許可にはならないと言っています」
乾いた笑いを漏らした。
「真帆さんと莉央さんにも、同じことを言ったんですか」
「言いました」
「二人は産める。私は産めなかった」
「その怒りは、遼介へ向けてください」
「向けています。でも、二人のお腹を見るたび、私の子だけが消されたと分かる」
声が初めて震えた。
「あなたは助産師です。二人の診療へ関わる可能性があるなら、上司へ私的関係を申告し、担当を外れてください」
「仕事と感情は分けられます」
「私も最初、そう言いました。そして患者を見られなかった。感情があることではなく、利益相反があることを認めてください」
答えはなかった。
面談後、私は産科責任者へ私的関係を報告した。誰を担当から外すかは私一人で決めず、医療安全管理部を交えて判断してもらう。
沙耶は通常勤務へ戻った。
表情も声も、いつもの助産師だった。
数日後、別の医師の診察を終えた莉央が、超音波写真を手に病棟の廊下を歩いていた。
沙耶はナースステーションから、その写真を見つめている。
莉央が去ったあと、床へ落ちたコピーを沙耶が拾った。
「桐生さん」
呼び掛けても、反応しない。
写真を持つ指が、小刻みに震えていた。
「どうして、この子は産んでいいの?」
掠れた声が、静かな廊下へ落ちた。
コメント
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第十七話、読み終えました。沙耶の七年、胸に迫るものがありました。「平気になるしかなかった」という言葉が、真帆や莉央の状況と重なって見えて…あの最後の「どうして、この子は産んでいいの?」は、彼女の積もり積もった想いが漏れてしまったんだろうなと感じました。自分を責め続けながらも、人としての線は守ろうとする沙耶の姿に、複雑な感情が残ります。starlight_kafuさんの描く「正当さの向こう側にある痛み」、いつも考えさせられます。