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ユビスには比べるべくもないが、ユカリたちの駆る馬は精鋭の早馬だった。とても人に慣れていて、素直に従い、それでいて道も標もない無垢な野原を駆けていた先祖の記憶を血に濃く秘めている。ユカリとドボルグと十人の盗賊たちは十二頭の馬を駆り、一路西へ、カウレンの城邑へと向かう。
道々、旧王国の造立した今は廃れて奉ずる巫女も奉じられる神もない神殿や、かつて王家の所領だったという美しい湿地を過ぎ去る。カウレンに行き着くまでいくつかの町を通り、町へ着くたびに体力を消耗した馬を置いて、その町の盗賊仲間によって用意されていた新たな馬に乗り換えて西へと走る。人間は取り替えることができないので一日中馬の背中に揺られ、まともな食事も睡眠もとらず、カウレンの城邑に着いた時は皆心身共にぼろぼろだった。ただ馬に乗り続けることがこれほど辛いことだとユカリは知らなかった。
しかし疲れも吹き飛ぶ脅威に見える。カウレンの城邑に到着する前からその威容に気づいてはいたが、ユカリは改めて北高地を見上げて感嘆する。ほぼ垂直の壁が西の空を覆っていた。その断崖絶壁そのものは人間による造立物ではないが、街から見渡せる限りの巨大な壁画が彫刻されている。昨日からの雨に濡れて生まれた影のせいか、ユカリは妙な迫力を感じた。
それは空から降り注ぐ炎が一人の少女の放つ輝きによって防がれ、街を守っている、という構図の画だ。ユカリにも、救済機構にまつわる伝説か何かなのだろうということは察せられる。
ユカリたちは体力を全て絞り尽くし、何とかカウレンの城邑の古びた城壁をくぐる。その時にも盗賊たちは通行証を衛兵に見せていた。本物かどうかはユカリに知る由もない。
とうとうカウレンの城邑の隠れ家へとたどり着くが、すでに馬泥棒とアギノアはこの街にやってきていたとのことだった。しかし昨日、目撃したという情報があっただけで、今どこにいるのかは目下捜索中だそうだ。
もう立ち去った可能性もあるが、疲れた体に鞭打って、目撃情報のあったという墓所へと向かう。
するとこの街の盗賊仲間たちに忠告を受ける。その墓所で暁の子像が盗まれて以来、亡霊が現れ、悪さをしているという噂があること、そして今朝から謎の集団が墓所にいる、ということ。
忠告を心に留めつつユカリたちは墓所へと踏み入る。そこは死者さえも呆れて立ち去ってしまいそうな、粗雑で荒れ果てた土地だった。
もはや縁者のいない古い墓地は名の知れぬ草ががむしゃらに生い茂り、杯のような形の墓石が倒れている。流麗な彫刻の施された石棺ははみ出し、鴉や鼠の腐った死骸に溢れている。濡れた土の匂いが立ち込めているおかげで、死臭は少しばかり抑えられている。しかし想像力豊かな子供でなくても生に恨みを持つ死霊の気配を感じる風景だった。
この街の人々には死者への敬意が欠片もないのか、とユカリは首をひねる。
アギノア含め、馬泥棒はこの墓所で野宿をしていたのだという。ユカリにとっては海よりもよほど恐ろしく感じる。
その時、何者かの歌うような訴えるような声が聞こえ、ユカリたちは息を潜めた。その何者かを確認するために、亡霊でないことを願いつつ、慎重に声の聞こえる方へと進む。硝子のようにくっきりとしていて透き通る少女の声だが、その響きには悲しみと憐れみを感じさせる。
草を踏み分け、ユカリよりも背丈の大きい墓石の向こうを横から覗く。
そこにはこの墓所で最も大きな墓石が並んでいて、その中心には六体の青銅像が立ち並んでいる。
「ここじゃないか、例の」と盗賊の誰かが囁いた。「そういえば墓地だと聞いたな」「元は七体だったのか?」
救済機構の僧侶たちが青銅像に立ち向かうように、二列になって弧を描いている。ざっと見て二十人くらいだろうか。黒衣だが焚書官ではない。艶やかな炎の刺繍を背中に背負っている。彼らにはユカリも前に一度会ったことがある。ユカリは首を伸ばして墓石の陰から覗き込み、その僧侶たちの中心で祈りの言葉を唱える少女を確認する。
その祈りもまた魔術に類する力だった。病に伏した我が子への微笑みや行き倒れに対する憐れみの眼差しが祈りの言葉と共に幻想的な温もりへと変じ、目に見えぬ何者かの不変の魂を癒している。
少女は両腕を上げ、六体の青銅像に向かって祝福に類する神聖な言葉で語り掛ける。
「さあ、何も恐れることはありません。清浄なる大地の到来は間近です。その輝かしい日が訪れるまで、ただただ天の園でお待ちください。誰一人とて拒まれることのない救済の時を指折り数えてお待ちください」
そう言って少女はさらに祈りの言葉を唱え、ユカリには見えない何者かに語り掛ける。語り掛けられた者でなくとも邪な考えを持つ者を退ける力のある言葉だ。
「ご子息さまですか? いいえ、拙僧は見かけておりません。分かりました。お約束しましょう。必ずやご子息さまも追って昇天なさることを。拙僧を信じてくださいませ。……え?」
その少女はふっと振り返り、思慮深げな栗色の瞳とユカリの目が合う。それは見知った人物だった。
「ノンネット!?」
「エイカさん!?」
そうだったエイカだったと、ユカリは思い出す。ユカリはアルダニ地方で護女ノンネットと出会った時、実母の名前であるエイカを名乗ったのだった。そして自分は首席焚書官だと偽ったまま逃げてきたのだった。首席焚書官であるという嘘の方は最後にはばれたが。
前に会った時はノンネットの踏み台になっていた護女の守り手である加護官たちは抜刀こそしないものの、幾人かはノンネットのそばに寄り、残りはユカリと人相の悪い男たちを警戒するように散らばる。何人かの加護官の衣がまるで墓地で寝転がったように濡れた泥で汚れていることに気づくが、気づかなかったことにした。盗賊たちの方はさらに距離を取って、ユカリを見守るかのように、いつでも逃げられる態勢を取った。
「拙僧のことを覚えておいででしたか、エイカさん」と護女ノンネットは悲しげに微笑みを浮かべて言う。
「もちろんだよ。その、元気そうだね」言うべき言葉がどこかに落ちていないかとユカリの目は泳ぐ。
「ちょっと大きくなった? 半年ぶりだもんね」
「なってません」少し強い声で拒むようにノンネットは言った。
禁句だったことをユカリは思い出す。ノンネットは大き過ぎないのだ。「そう、かもね」
ノンネットはユカリではなく、背後で遠巻きに見ている柄の悪い男たちに目を向ける。
「ところで、何やら怪しい方々とご一緒のご様子。ベルニージュさんはどうされました?」
「まあ、ね。ベルとはちょっとはぐれて、今探してるところ」
「そう警戒なさらないでください。争うつもりはありませんよ」とノンネットは怯える野良猫に語り掛けるように言う。
ユカリとしては警戒というより、ノンネットを騙したことの後ろめたさで、どのような態度を取るべきか分からないだけだった。
「さあ、皆さんもそうぴりぴりなさらず」とノンネットは加護官たちに呼びかける。「いずれにせよ、いざとなれば敵う訳のない相手です。拙僧どもにできることなど説得くらいでしょう」
その口ぶりからユカリが魔導書を持っていると見なしているのは間違いない。しかし魔法少女ユカリだということを知っているかどうかは分からない。ノンネットがそのように演技をする理由も見当たらない。だからといってユカリが油断する理由にはならない。
ノンネットはさらに続ける。「さあ、少しばかり二人きりにさせてください。積もる話も説くべき教えも山とあります」
加護官たちが素直に離れていくと、ドボルグが呼びかける。
「おい! 馬泥棒はどうするつもりだ!?」
「しばらくお任せします。すみません」とユカリが答えると、一人を残して盗賊たちはカウレンの城邑の方へ戻って行った。
「ええっと」ユカリは荒れた墓地を見回して、先ほどノンネットが語り掛けていた大きな墓石を見上げる。「ここで何してたの?」
「慰霊の儀です。生前に抱いていた強い意志に縛られた亡霊たちを解放することは、護女に任された大切なお役目の一つなのです」
ユカリは目を見開いて辺りを見回す。およそ生命の存在を感じさせない枯れた墓地だ。亡霊に相応しい土地には違いない。
ユカリは目に見えない亡霊に聞こえないように囁く。「亡霊がいるの? 今も? ノンネットには見えるの?」
「いえ、丁度先程、皆が昇天なさったところです。しかしながら、はい、確かに拙僧には亡霊をこの瞳で捉えることが出来ます。旧シュジュニカ王家の縁者の方々だったそうです。亡霊ながらご立派な方々でした」
「そう、じゃあ今はもういないんだ。そういえば息子さんがどうのって言ってたね」
ユカリは水垢に塗れて亡霊のような姿になっている六体の青銅像たちを見上げる。どこか威厳を感じられる老若男女がそれぞれ別の方向を見つめている。よくよく見ると、その台には一人分の足の跡があった。盗賊たちの噂していた盗まれた青銅像というのはこれだろうか。
「まさにそれです」とノンネットがユカリの心を読んだかのように言う。「そのレゴンさまの青銅像が盗まれ、同時にそのご子息の亡霊も消えてしまったとか」
「亡霊たちは一体こんな所で何してたの?」とユカリは言う。
「何ということもありません。時々生者を嚇かして楽しんでいたそうですが。大半の生者は気づきもしませんから。ただこの墓地を長い間眺めていたのでしょうね」
質の悪い亡霊だと思ったユカリだが、こんな所に縛り付けられていたことには同情した。長い間縛られれば他にやることもなくなるのだろう。
「拙僧の方もお尋ねしてよろしいですか?」とノンネットはユカリをじっと見上げて言う。
「うん。いいよ。何でも聞いて」と請け合う。
「魔導書をどうなさるのですか? 救済機構を敵に回すおつもりなのですか? あれがとても危険な代物であることはご存知ですよね?」
ユカリは出来る限り真摯に正直に答える。
「危険だからこそ救済機構にも託すつもりはないんだよ。そもそも焚書なんて名ばかりで魔導書を始末する方法を今のところこの世の誰も知らないわけでしょ? だから託せない。もちろん敵対したいわけでもないけど。救済機構は私の考えに賛同してくれないんだろうね」
そもそも焚書できたとしてもするつもりなどないのではないか。他の多くの国家と同様に強力な力を手放すつもりがあるとは思えない。
「シグニカにいらっしゃったのも魔導書のためですか?」とノンネットは尋ねる。
「うん、そう。ただ、今はちょっと寄り道してるんだけどね」そう言ってユカリは盗賊たちに話した事と同様に、馬を盗まれたこと、フォーリオンの海での顛末、そして盗賊たちと共にここまでやって来た理由を簡単に話す。「突拍子もない話だってことは自分でもわかってるけど。信じてくれる? ノンネット」
ノンネットは深い森の小池のような澄んだ瞳で迷いなくユカリを見つめて微笑みを浮かべる。
「ええ、信じましょう」
嘘をついたわけでもないのにユカリの心のあるべき辺りがちくりとした。