今日も今日とてレモニカは大男の体で船縁の手すりにもたれて、海を見つめている。今にもユカリが戻って来るのではないか、という兆しのない希望にすがりついているかのように。ただしこの穏やかな海に閉じ込められたばかりの頃と違い、見つめているのは真下の海面ではなく遠い水平線だ。
ベルニージュとネドマリアはどこから持ってきたのか円い机を間に挟んで軽食を摂っている。机の上には鳥の足跡のような奇妙な文字の書き記された羊皮紙、そしてその上にいくつかの銀貨が置かれている。それがどういう魔術なのかレモニカには分からない。
たったの一週間ほどで人々はすっかり慣れてしまったようだった。波は常に穏やかで海の幸は十分に、不自然なほどにとれる。魚を釣る者もいれば素潜りで獲って来る者もいる。どこからか山となった海藻や貝の群れまで流れてきて、恵みの雨は定期的に降りそそぐ。気候も温暖で奇妙なほどに快適だ。脱出には誰も成功していないが、今のところ死者も怪我人もいない。
明らかに魔術であると誰もが考えているが証明はされていない。どうやら海の上に監禁されているらしいことは分かるが、その目的ははっきりしない。決して逃がしはしないが、傷つけるつもりもない、という意図だけが読み取れる。船団はもはや海上の街と化しており、混乱は鎮まって落ち着きを得ている。
晴れやかな空と清らかな海に挟まれて、ベルニージュとネドマリアの談義が聞こえてくる。
「だからそもそも人造魔導書って名称はどうなのって思うに至ったんですよ、ワタシは。別に魔導書の何が明らかにされた訳でもないのに、何をもって魔導書を名乗ってるのって話じゃないですか」
ベルニージュは様々な海の幸の酢漬けを口にしながら、羊皮紙の上の銀貨の一つを裏返して言う。
「何をもってって、その強力さでしょ?」ネドマリアはどこで調達してきたのか焼き立ての麺麭を毟り続けている。「聞いた話だけど、引けを取らないらしいよ、触媒としても」
ネドマリアは懐から出したレブニオン銀貨を置いてある銀貨の上に積む。
「引けを取らないって、ネドマリアさん、言ってたじゃないですか。人造魔導書は沢山の石板を利用したものだって、いや、粘土板でしたっけ?」
「色々なのが試されているらしいよ。石板もね。それがどうしたの?」
「その時点で魔導書に遥かに劣ってるわけじゃないですか。魔導書は少女が何冊も運べる書物だって、噂で聞いたことありますよ。いくらでも資源と時間を使ってもいいなら、遥か昔から魔導書並みのことはできます。誰にでも」
そう言ってベルニージュは銀貨を一つ羊皮紙の上から机の方に移動したが、ネドマリアは麺麭を齧りながら銀貨を元の場所に戻した。
「魔法少女自体が噂の域を出てないけどね」
「それは、まあ、そうですね。そうですけど」
ベルニージュのもどかしそうな喋り方にレモニカはそっぽを向いて笑いを堪える。
「いや、待って。ネドマリアさん、ワーズメーズの出身って言ってましたね。あそこは魔法少女が来て、伝統の魔術を破壊し尽くしたって聞きましたよ? 会ってないんですか?」
ネドマリアはくすぐられたみたいにくすくすと笑う。
「ちょっと誤解があるけど、そうだね。でも会ってないよ、私は。それにあの街の迷いの呪い自体、解体案も出てたから喜んでる人もいたけどね。私は存置派だったけど」
「じゃあ逆に、もしかして憎んでたり?」とベルニージュは酷い問いかけをする。
さすがにそばにユカリがいたならそのような質問はしなかったはずだ、とレモニカは信じる。
ネドマリアが首を振って笑い飛ばし、レモニカはほっとする。
「憎みはしないよ。でもあれはあれで慣れてしまえば便利で色々と使い道があったからね。あの迷いの魔術の集積を求めてやって来た魔法使いも大勢いたよ。宇宙や深奥、空間の研究者とか古代魔術や巨人文明の探索者とかね。ん? ベルは深奥? 顔に出てたよ」
レモニカはベルニージュの顔をそっと盗み見るが何も読み取れなかった。その視線は銀貨の一つに注がれている。
「深奥は手段です」とベルニージュははっきりと言う。「一番の目的は魔導書超え」
大それた野望のはずだが、ネドマリアは素直にそのままに受け止めた。
「そのための魔導書の解明ってわけね。深奥に至れば究極の知識だの古代の秘儀だのを得られるって話を信じてるの?」
「信じる信じないじゃありません」ベルニージュは強い意志を示すように声を張る。「そういう説を幾許かの魔法使いが主張していて、幾らかの魔法使いが研究している、というだけです。行き着けばわかります」
ベルニージュが次々に計十枚の銀貨を積み重ねる。
「ごめんごめん。別に否定したかったわけじゃないよ。でも思うんだけど、至上の知識を得たなら、魔導書越えできそうじゃない? 魔導書の解明をすっ飛ばしてさ」
ベルニージュも麺麭を手に取り、酢漬けを乗せて食す。
「それでは勝ったとはいえません。本当に魔導書を超えたかどうかは魔導書を解明しないことには分かりえません」
「それもそうか」と言ってネドマリアが銀貨の塔からレモニカの方へ目線を向ける。
視界の端でベルニージュとネドマリアのやり取りを見ていたレモニカと目が合い、レモニカは慌てて目をそらす。
「ごめんね。レモニカ。つまらないよね」とネドマリアは言う。
「いいえ、とても興味深いお話でしたわ。ただ、わたくしは――」
「そんな気分になれない?」とネドマリアが言葉を継ぐ。
「まあ、そんなところですわね」レモニカは努めて明るい声で話す。
「二人の友達、ラミスカは、少なくともこの船団にはいなかったみたいだね。この大渦の外に出られたのかな」
「ワタシはそう言ってるんですけどね。レモニカは信じてくれない」とベルニージュはあっけらかんと言う。「だって溺れた人を近くの船にまで流してくれる大渦だよ? ユカリの命だけ奪うなんておかしいじゃない」
「別に信じていないわけではありませんわ。それこそ信じる信じないではありません。ただ、わたくしは、ラミスカさまに会えなくて寂しいだけです」
「ようし!」と言ってネドマリアが席を立つ。「気分転換に散策しよう。レモニカはずっとこの船に閉じこもってずっとベルニージュと二人きりでしょ? たまにはいつもと違うことしなきゃね」
「ですが、その」と言って、レモニカは一歩引くがそれ以上は引かない。
ネドマリアが近づいてきてレモニカの腕を取る頃には、ベルニージュが嫌うそれとは別の大男の姿に変じる。
「いいからいいから、さあ出発! ベルニージュはお留守番、よろしくね」と言ってネドマリアはレモニカを見つめてため息をつく。「それにしても憎たらしい顔。あ、ごめんね」
「ちょっと! 勝負はついてませんよ!」とベルニージュが羊皮紙を指で叩いて言う。
「ついてるよ、よく見て」
ベルニージュは羊皮紙をじっと見て呟く。「あ、ワタシの勝ちか」
船から船へ次々と渡り歩く。船が違えば文化が違い、人々の営みの様相も変わって来る。札遊びの賭け事に興じている者もいれば、魚釣りしている者、商いをしている者、剣を素振りしている者、酒を飲む者、踊る者、踊る者を観る者、ベルニージュとネドマリアのように討論する魔法使いもいる。この非常な事態にあっても生活が、変わりない営みが続いている。
レモニカはネドマリアの視線も追う。何もかもを目にしておこうとしているかのように、何者かを探しているかのように、視線を巡らせている。新しい街に着いた時のベルニージュのようだ。
「ネドマリアさんはこの男が怖くないのですか?」とレモニカは思い切って尋ねる。
ネドマリアは微笑みを浮かべて大男の瞳を覗き返す。「怖いっていうより憎い相手だよ、そいつは」
「そうなんですか。でも変わりない態度のように思えます」とレモニカは踏み込む。
ネドマリアは受け入れる。「そうかな。そうかもね。でもベルニージュだってそうじゃない?」
「そうなのですが……」
ベルニージュは別だ、とレモニカは何となく思っていた。ベルニージュには強さとは別の異質さをレモニカは感じ取っている。
陽気な楽の音が聞こえってくる。歌う者。竪琴を爪弾く者。太鼓を打ち叩く者。海を越えた先に幾つもある様々な土地の色々な春の楽の音がそれぞれの心を一致させて、別の音を掻き鳴らし、同じ楽を作り上げている。それは春に色づく野原の歌であり、陽気に微睡む都市の歌だ。織り成す神秘は目に見えぬ者を南から呼び寄せる力を備えているが、この海の上では無力だった。
「それにもう赦したからね、そいつのことは」とネドマリアは寂しげに言った。
レモニカは何か言いたかったが言うべき適切な言葉が見つからない。
ネドマリアは赦していないから今も憎くて、嫌いで、だから自分はこの大男に変身するのではないのか。しかしレモニカはそのような、知った風なことをネドマリアに言う気にはなれなかった。
ネドマリアからすれば、いや、この呪いに相対した全ての者からすれば、呪いだか何だか知らないが人の心を勝手に写し取って公開しておいて知った気になるな、と思っても仕方ないことだ。
レモニカが何も言わないことに気づいてネドマリアは言葉を重ねる。「嫌いだけど、哀れにも思うんだよね。今となっては。人間ってそういうものでしょう? 好きと嫌いを同時に持つことさえある、場合によっては」
レモニカは好意を拒む時のように遠慮がちに首を振る。「わたくしには分かりません。そのようなことがありますか?」
「誰にでもあるし、誰にだってできることだよ。友達の心配をしながら、ここから脱出するために心を燃やすことだってできる」
「魔術師ではないわたくしにできることなど」と言ってレモニカはネドマリアから目をそらす。
「冗談でしょう? 魔術師じゃない人に魔術を求めたりしないよ」とネドマリアがレモニカの腕を引っ張る。「まあ、レモニカに何ができるかなんて私も知らないけどさ。レモニカはどこかを目指す前にもっともっと迷うべきだよ。でなきゃ迷いから脱するこつも身につかないからね。それに目的地と現在地の間の道には沢山の面白いものや楽しいものがあるんだから。楽しんでかなきゃ、ね」
似たようなことをユカリに言われたことをレモニカは思い出す。もう少し実際的だった気はしたが。
ふとネドマリアが立ち止まる。そして辺りを見回して呟く。「ここどこ?」
二人でネドマリアの乗ってきた船を見つけて別れ、レモニカは一人でこそこそと元の船に帰る。
机の上で書き物をしているベルニージュの姿を見たその時、何かささやかな衝撃がレモニカの胸を打つ。それは初めてのことだったが、それが何なのかレモニカにはすぐに分かった。
「ベルニージュさま!」と言いつつベルニージュを抱き締め、大男の姿になって冷静さを取り戻して離れる。
さすがに無神経すぎる行為だ。
「おかえり。どうしたの?」とベルニージュは何でもない様子で言う。
レモニカも何もなかったかのように冷静に言う。「ユカリさまは生きていますわ!」
ベルニージュは書き物から手を離して真面目な眼差しで言う。「説明してみて」
レモニカが言いたいことを頭の中でまとめる前に口を突いて出る。「ほら、覚えてまして? 例の紫の蜥蜴の呪いのことを」
「ああ、クオルが猿蟹と黄金にかけた呪い。ワタシが残り物をレモニカにあげたやつね。それがどうしたの?」
「蟹猿ですわ。それが突然消え失せたのです。きっとユカリさまにつけていた尻尾の呪いが消えて、一緒に本体の方も消えたのですわ。これはつまりユカリさまが魔法少女に変身したということではありませんか?」
ベルニージュは勢いづくレモニカと対照的に静かに頷く。「まあ、確かに。魔法少女に変身したらあんな呪い簡単に除去されるだろうけど」
「ですわよね!?」とレモニカは嬉しそうに頷く。
「だけどそもそも、呪いが消える云々の前に、尻尾の呪いの位置が何となく分かるのがこの呪いの本文だよね? 今まで何で黙ってたの?」
「それは」レモニカは唾を飲み込む。「呪いの位置が分かるだけだからですわ。海の底にあって、数日後にそれが陸の高さまで移動したとしても、確信が持てませんもの」
生きているかどうか、など。
ベルニージュはレモニカの気持ちを察した様子で安心させるような微笑みを浮かべる。
「なるほどね。納得したよ。妙に、まるでユカリが死んだと確信しているかのように泣き喚くものだから」
「申し訳ございません。ベルニージュさまにお伝えするのも心苦しく。それに元々黄金にかけられていた呪いですから、つまり生き物じゃなくても……」
「うん」ベルニージュは感心したようにため息をつく。「いいよ。やっぱり生きてたんだし。それはそうと、肝心なところを聞きたいんだけど。何でユカリに位置の分かる呪いをかけてたの?」
レモニカはぴたりと表情を止め、あからさまに焦りを見せる。
「ちょっと練習させてもらっていましたの。ほら、あまり遠く離れると効果がないようなので、つけっぱなしだったことを忘れていました」
「ふうん。じゃあユカリに再会したらそのことについて聞いておくよ」
レモニカがベルニージュにすがりつく。「嘘ですわ! 出来心です! ただ、知りたいという気持ちが暴走しただけなのです! 後生ですわ! お許しください!」
「貸し一つね」と言ってベルニージュはにやりと笑みを浮かべる。
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