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妊娠がわかってからの日々は、穏やかで、時に不安も混じる毎日だった。
最初のうちはつわりで何も食べられず、食卓に座ってもコップの水だけで精一杯な日もあった。
そんな時、亮さんは黙って隣に座り、私の背中をさすり続けた。
「無理しなくていい。食べられる時に食べればいいさ。」
その声は、弱った心を包み込む毛布のようだった。
お腹が少しずつふくらんでくると、夜の寝返りもひと苦労になった。
彼は寝る前に必ず、私の腰や背中にクッションを置き、「これで少し楽になるはず」と言ってくれた。
ある夜、眠れないまま天井を見つめていると、隣から囁きが聞こえた。
「早く会いたいな…」
私は笑いながら、小さく答えた。
「うん…私も。」
そして、予定日の一週間前。
夜中にふと目が覚めると、下腹部にゆるやかな痛みが走った。
最初は軽かったその痛みが、少しずつ間隔を縮めていく。
「亮さん…多分…始まったかも。」
寝ぼけまなこの彼が一瞬で目を覚まし、慌ただしく荷物を確認する。
けれど、私の手を取るその手は、少しだけ震えていた。
病院へ向かう車の中、街灯の明かりが車内を柔らかく照らす。
私は深呼吸をしながら、隣の彼を見上げた。
「大丈夫…? あなたの方が緊張してるみたい。」
彼は苦笑して、ハンドルを握る手に力を込めた。
「そりゃそうだ。俺の一番大事な二人が、これから頑張るんだから。」
その言葉に胸が熱くなった。
痛みはこれからもっと強くなるだろう。
でも、隣にいる彼の横顔を見ているだけで、不思議と恐怖は薄れていった。
病院の入り口に着くと、彼は車を降りて私の手を握り、真剣な表情で言った。
「俺、ずっとそばにいる。だから一緒に、会いに行こう。」
私は頷き、大きく息を吸い込んだ。
――この先に、私たちの新しい家族が待っている。
陣痛は、波のように何度も押し寄せた。
そのたびに息を整え、必死に力を込める。
病室の白い天井が少しにじんで見えたのは、涙のせいだったのか、汗のせいだったのか、もうわからなかった。
「頑張れ…! 君ならできる!」
耳元で聞こえる吉沢さんの声。
手を握る彼の手は汗で湿っていたけれど、力強くて、決して離れなかった。
痛みの合間、彼の顔を見るたびに「一人じゃない」と感じられた。
そのことが、何よりの支えだった。
そして――
「もう少し! はい、力を入れて!」
助産師さんの声に背中を押され、私は全力で最後の力を振り絞った。
次の瞬間、部屋に小さな産声が響く。
それはかすれていて、それでいて力強い、世界で一番愛しい音だった。
「おめでとうございます。元気な女の子です。」
助産師さんがそっと私の胸にその小さな命を乗せてくれた。
まだ温かく、やわらかい。
小さな手が、ぎゅっと私の指を掴んだ。
涙があふれ、言葉にならない。
「…はじめまして。」
震える声でそうつぶやくと、吉沢さんが私と赤ちゃんを包むように抱き寄せた。
その頬にも涙が光っていた。
「ありがとう…本当にありがとう。二人とも、よく頑張った。」
彼の声は少し詰まっていて、私の胸に深く染み込んだ。
窓の外は、夜明けの光が差し込み始めていた。
新しい一日と、新しい命の始まり。
私は、この瞬間を一生忘れないと心に誓った。
第2話
ー完ー