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篠原愛紀
この人を見ると、足がすくんでしまう。
お菓子屋の御使いは妹に代わりに行ってもらうようにしてたから、もう会うことなんてないと思ってたのに。
「なんや。挨拶もできんと御高く止まっとんのか」
「あ、いえ、あ」
「舞う事しかできんお嬢様がこんな店で働けるか」
冷たくそう言われたら、横で控えていたパートの方がクスクスと悪意を感じる笑いを溢した。
でも、――仕方ない。
「舞う事も満足にできない私です。どうぞお世話になります」
惨めで、――涙が溢れそうだった。
でも私の泣き場所はあの桜の木の下のみ。
こんな所では泣きたくない。
唇をぎゅっと結んで笑顔を張り付けた。
「遅くなってすいません」
自動ドアが開くと同時に、店に飛び込んできた女性。
彼女のおかげで、私が暗くしてしまった空気が一瞬で明るくなった。
「裏に回ろうかと思ったんですが、また幹太さんが女の子を怖がらせてるようだったので」
長い黒髪をパサリと後ろへ流すと、その人は私を頭の先から爪先まで値踏みするように見てくる。
猫みたいなちょっと鋭い大きな瞳に、高い鼻にキリリとした眉毛。
美人でスタイルも良くて、背も高いけど。あれ……。
「あの、鹿取美麗と申します。よろしくお願いします……」
「はい。よろしく。私は唯一の正社員の日高 桔梗。幹太の同級生だから苛められたら言ってね。あ、でも」
日高さんは、大きなお腹を擦ってはにかんだ。
「来月には産休に入っちゃうから、それまでビシバシ指導しちゃうからね」
(やっぱり……)
私みたいな役立たずが呼ばれたのはきっと日高さんの妊娠が理由なんだ。
きっと求人を募集しても来なくて。
そう思うと突然こんな場所で働けと言われたのも納得がいく。
でもなんで母は説明してくれなかったんだろうか。
「やだやだ。辛気臭い顔しないでよ。ほら、着替えて着替えて。小百合さん、私ロッカー教えて来ますね」
「貴方は無理しないでね? お腹が張って苦しかったんでしょ」
「もう大丈夫です。着いて来てね」
嵐のようにテキパキと日高さんに連れられて、レジの中へと案内されていく。
途中、幹太さんに睨まれたような気がしたけど、そちらを伺う余裕なんてなかった。
レジの奥、和菓子を作る台所とは離れた場所に休憩室があった。
和室で、靴箱の横にロッカーが四つ並んでいて。
テーブルの上には和菓子が置かれている。
日高さんはお腹が大きいのに若草色の着物に上手に着替えて、その上から白いレースのエプロンを着る。
ちょっとだけ可愛いななんて思ってしまった。
「貴方は研修中だからこれよ」
「へ?」
ロッカーから出されたのは、幹大さんと同じ紺色の着物。生地まで同じだ。
そしてフリフリのエプロンじゃなくて、割烹着。
給食エプロンみたいで可愛くなかった。
着物もあまり好きではないのでダメージが大きい。
洋菓子店みたいな甘い香りがして、フリフリのエプロンドレス着て仕事とかしてみたい。
こうしなさい、ああしなさいと生きてきたけど、したい事が浮かび上がらず困っていた矢先でのこの割烹着。
「可愛いわよ。よく似合ってる」
「嬉しくないです……」
休憩室を出てレジに向かいながら、泣きそうになりながら無理に笑ってみせた。
「そう? まぁ確かに幹太とペアルックみたいよね。夫婦みたい」
クスクス笑う日高さんに、幹太さんが調理場の暖簾から顔だけ覗かせる。
「着替えたんなら早く来いよ」
「はいはーい」
しかめっ面の幹太さんに慣れっこなのか日高さんは怖がる様子もなくレジの方へと向かう。
私も余りに色々な出来事があるから、――彼との約束を忘れかけていた。
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