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耳の上で結んでいたリボンを解き、さっとブラシで分け目を直した後、香苗は髪を無造作に後ろで一つに束ねる。低い位置でのポニーテールをまとめるのは、光沢あるワインレッドの生地にパールの飾り付きのシュシュ。癖のない真っ直ぐな香苗の髪によく似合っているそれに、睦美はものすごく見覚えがあった。
「そのシュシュって、ついこないだうちに入荷したばかりのやつじゃない?」
一昨日の木曜に初めて入ったけれど、全五色が一点ずつの小ロット納品。その日が公休日だった睦美は当日に即売れしてしまったという黒とワインレッドの二点はカタログでしか見ることができなかった。自分で買うならその二色のどちらかだなと入荷されるのを密かに楽しみにしていた商品で、出勤した後すでに売り切れていたのを知ると慌てて次の入荷分は取り置きの予約を入れた。まさかその内の一点が香苗の手に渡っているとは思ってもみない。
「ええーっ、出したらすぐ売れたって聞いてたけど、リンリンが買ってたの⁉︎」
「むっちゃんが休みだったの忘れてて、休憩のお誘いに行った時に見つけて。同じタイミングで色違いをサービスカウンターのバイトの子が買ってったのも見た」
「そうなんだ。私も次の入荷分で予約入れたよ。パール付いてるから制服の時は無理だけど、ちょっとした普段使いにいいなって。無難に黒にしようと思ってたけど、その色もキレイだね」
互いについ職業病が出て話が逸れてしまっている内に、テントの外から佐山千佳の声が聞こえてこなくなっていた。意欲的に体験レッスンへの質問をしていたみたいだから、ゆくゆくは子供をお受験幼稚園に入れるつもりなのか。同時に、うちの男性社員はそんなに給与を貰っているのかという疑問が沸き上がる。
「佐山さんの旦那さんって、私達と役職は同じだったよね? 上の階って結構交流あったりするの?」
「あの人は紳士服売り場のチーフだったと思う。ううん、全然。むっちゃんのとこほど行き来はないよ。メンズだと共通のアイテムもないし」
じゃあ香苗が嫌うほどの何があったのかと、睦美は髪を整え直していたブラシの手を止める。睦美が配属されるより前からあの店に勤めている香苗だからこそ、それなりの理由があっても不思議じゃない。職場の複雑な人間関係は知っていて損はない。
興味深々と睦美が目を輝かせた時、外から聞き覚えのある幼い声が聞こえてきた。
「むっちゃーん!」
「あ、沙耶の声だ」
「今日も最前列だったもんね」
「そう、しかも今日は姉と甥っこまで一緒だったし……」
身内にあの恰好を見られてしまったと嘆く睦美のことを、香苗は「ふふふ」とおかしそうに笑っている。完全に他人事だ。元々のイメージと大きくかけ離れているからか、香苗はリンリンお姉さんの状態で知り合いに出会ってもこれまで一度もバレたことがないらしい。
「だから、むっちゃんがすぐに私だって気付いた顔してたの、すごくビックリした」
――それは私が、以前からいつも社食でこっそり見てたからで……
さすがにそんなストーカーまがいなことは言い出せず、睦美は「同僚なんだから当然でしょ」としれっと言って誤魔化す。姪の声がした方に向かいテントから顔を出すと、今日も髪型をツインテールにしてもらっている沙耶の後ろにはニヤニヤ笑いしている姉の里依紗。淳史は今はベビーカーに乗せられて気持ちよさそうにお昼寝中だった。
「むっちゃん、いた! 一緒にドーナツ食べに行こうよー」
「ドーナツ? ああ、これからフードコートに行くの?」
「さーちゃん、ちょっとお腹空いたからー。ドーナツかクレープが食べたいなーって」
イベントスペースにある壁掛けの時計を見上げると、お昼ご飯にはまだ微妙に早い時刻で、おやつ代わりのスイーツを食べに行くつもりらしい。
「分かった。すぐ用意するから、ちょっとだけ待ってて」
控室の中へ戻ると、睦美は自分の荷物を急いでまとめる。ここは翌日のイベントでも別の出演者用に使う予定みたいで、運営スタッフから帰る時はそのままでいいと先に聞かされていた。
沙耶との会話が聞こえていたらしく、自分のメイク道具をポーチに片付けていた香苗が「行ってらっしゃい」と笑顔で手を振って見送ってくれる。
「バタバタとごめんねー。また明日」
「うん、またね」
同じ売り場ではないから翌日に会えるとも限らないけれど、二人は「またね」と声を掛け合った。
途中になってしまった佐山チーフの話も気にはなったが、また食堂で一緒になった時にでも聞けばいいかと、その時の睦美は気楽に考えていた。妻の千佳と同じく、たまに顔を見る程度の存在で深く関わり合うこともないと思っていたから。