ざわざわと話し声がする中、薬剤を混ぜる音とドライヤーの大きな風音が響く。色んな音が一気に耳を打つ。凪はその音にも慣れた様子で視線は下の雑誌に向けていた。
ヘアカタログを見るのも飽きて、ファッション誌を手に取った。最近服も買いに行ってなかったなぁ、なんて思いながら1枚ずつゆっくりとページを捲る。
「今回もパーマかける?」
後ろからそう聞かれて、凪は「うん」と軽く返事をした。髪を触られながら、顔を上げることなく鏡を見ることもしない。
「色は? 俺が好きなのでいい?」
そう聞かれて初めて顔を上げた凪は、「お前は客に希望を聞く気はないのか」と鏡越しに千紘を睨んだ。
肩をすくめてははっと笑う千紘は、「だって凪センス悪いんだもん」と愉快そうだ。
「センス悪いってなんだよ。俺には俺の好みが」
「まあ、顔がいいから何でも似合うよ? 似合うけどさ、なんでそれにしたかなっていつも思ってたんだよね。ダサい時もあったしねー」
千紘は軽く棘を含みながら凪の髪を触る。凪は、そんなこと思ってたのかと口を尖らせた。
千紘が担当になってからこれで3度目の来店だ。もう来ないと言った凪と、写真で脅した千紘。
そんな出来事も2ヶ月前のことになった。本来ならあれから会うのは2回目のはず。しかし、1週間前にもベッドの中で共に過ごしたばかりだった。
それも「俺がシたくなった時だけ」と言った凪におかまいなしに、毎日のように連絡してきた千紘がしつこく誘ったからだ。
プライドの高い凪はそんなことを言いながら、自分からは誘ってこないだろうと千紘は思っていた。自分から動かなければ次はないかもしれない。そう考えた千紘は、とても凪の気が変わるまで待ってなどいられなかった。
それに、何だかんだ押しに弱いことも知っている。泣きついたら嫌な顔をしながら会ってくれる事にも気付いていた。
それをわかっていてただ待っているだなんて、千紘にはできなかったのだ。
「凪の髪型を俺が決められるって最高」
千紘はうっとりと恍惚の表情で言った。千紘のおかげで、凪の髪のダメージは修復しつつある。千紘が担当に変わったばかりの頃より圧倒的に毛質が柔らかくなっていた。
「決めていいなんて言ってないだろ」
「でも俺が決めた方がカッコよくなるよ?」
「……」
凪は面白くなさそうにじとっと鏡越しに千紘を見た。そう言われてしまったら、言い返す言葉が見つからない。
先月訪れた時は、宣材写真の撮影に合わせて予約を入れた。あからさまな贔屓で凪を優先させる千紘にいつかクレームが入るんじゃないかと凪は気が気じゃない。
「バレないようにやってんの。大丈夫、大丈夫」なんて言いながらずっと近くにいるものだから、バレないわけがないとため息しか出ない。
それでも「撮影に間に合わないと困るからね。とびきりカッコよくしてあげるね」と言いながら時間内でカットもセットも終わらせる技術はさすがとしか言いようがなかった。
更に仕上がりは文句なしの理想そのもの。そんなことをされては、今回も任せるしかなくなった。
「俺は、美容師としてのお前に任せるんだからな」
「はいはい。男としての俺には体を委ねてくれたらいいのよ」
凪の両肩に手を置いて、耳元で千紘が囁いた。目を見開いてバッと振り向いた凪は「てめっ、また」と顔を歪めた。
来店する度にこんなやり取りが続く。一度や二度はこんなことを言ってくるのが当たり前になってきているが、やはり店内の誰かに聞かれてはまずいと慎重になるのだ。
「次はいつにしよっか」
千紘が不意に尋ねる。それに対して凪は軽く舌打ちした。
「盛ってんじゃねぇよ。まだ体が本調子じゃ……」
言いかけてはっと口を噤んだ。ニヤニヤと頬を緩める千紘が目に入ったからだ。
「次の予約の話なんだけどね」
またからかうように千紘が言うと、凪は勘違いした自分を恥じるかのように顔を真っ赤にさせて俯いた。
千紘は肩を震わせて笑いを堪えるが、それもこれも可愛い凪の反応を見たいがためのイタズラである。
「お前、ほんと最近調子乗りすぎだぞ」
凪はまだ顔を赤らめたまま呟いた。もう会わないと拒絶した日、あんなにも悲しそうな顔をしたくせに。嫌いだと手を振り払った時、あんなにも切なそうな顔をしたくせに。
二度、三度、四度プライベートで会ったくらいで、抱かせたくらいでもう近しい間柄みたいな顔をする。凪はそんなふうに思って面白くない。
「調子、乗るでしょ。大好きな人に仕事中に会えるなんて、浮き足立ってヤバい」
千紘はそう言って無邪気に笑った。時々こうやって子供みたいに素直だから、悪態をつく自分の方が大人気ないんじゃないかと錯覚しそうになる。否、実際大人気ないところもあるか……と凪はふと思うこともあった。
「お前、本当に俺のこと好きなのな」
「うん。好き」
好きだと言われて照れるのとは違うけれど、好意を抱かれて悪い気はしない。時々強引なところはあるが、初対面の時のように凪に恐怖を与えることは決してしなくなった千紘。
少しずつ信頼を得ようと彼なりに努力していることは窺えた。だからといって全てを受け入れるつもりはないが、凪もなんとなく千紘と会話をすることも、彼のために時間を作ることも苦ではなくなってきている。
「お前って変わってるよな?」
「そう? むしろ凪を好きになるなら王道じゃない? イケメン、細マッチョ、高身長」
「……お前に言われるとほんとに嫌になる」
これだけの褒め言葉を並べられて全く喜べないのは、美形で肉体美を持ち、凪を超える高身長の千紘に言われたからだ。
いくら持ち上げてもらっても、自分を凌駕する相手に言われたらそれはもはや褒められてはいない。
「えー? それって俺のこと褒めてる?」
「褒めてる、褒めてる。お前の顔は綺麗だし、完璧な体型だし、俺よりも背が高い」
「おお、凪が珍しく俺を褒めた」
「お前の容姿は完璧だよ。よって、俺のタイプじゃない」
ツンとそっぽ向いて凪は言う。ほんの悪あがきだ。一瞬喜んでポッと頬を赤く染めた千紘は、たちまちむーっと眉を下げてむくれた。
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