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…バンッ
 大きな音に身をすくませる。
アパートの隣に住むやつは、いつも大きな音を立ててドアを閉める。
そして、子供の泣き声が続く。
またかよ、と思いながらため息をついて隣へと続く壁を睨む。
怒鳴り声と、泣き声と。
本当は通報とかしたほうがいいんだろうけど、それって俺じゃなくてもいいことだし。
通報とかして、報復とかされるのも怖いし。
言い訳とわかっているけど、それでも…なにもできないことにして。
あ、やべっ。講義の時間に遅刻する。
俺は急いで大学に向かった。
講義が終わり、研究室に顔を出すと、坂下先輩が笑顔で挨拶してきた。
いつも優しそうに笑っていて、この人を好きだと言う男も多いのは知っているけど、俺はなんとなく苦手だ。
「っす」
「久しぶりだね、研究室で会うの」
「そうっすね」
「最近どう?研究、捗ってる?」
「はい。データは結構集まったんで、集計してます」
「手伝えることがあったら言ってね」
「あざっす」
坂下先輩は相変わらずにこにこ笑いながら、手元の資料に目を落とした。
色白で整った顔をしていて、化粧っ気はあまりない。くりっとした大きな目はかわいいと思う。華奢な体格だから、男としては守りたくなるような女の子なんだろうけど…。
やっぱり、何か苦手なんだよな。
自分のノートパソコンを開き、データを眺める。
【音の認識について】
俺の研究テーマ。
音って、どこから音なんだろう?空気の振動があれば、耳に届かなくても音なんだろうか?聞こえる周波数も動物や個体によってまちまちだ。
聞こえなければ音じゃないのかな?
なら、クジラに聞こえて、人間に聞こえない音は、音じゃない?
まぁ、そんなことじゃなくて、聴覚で認識できる範囲について調べました、っていうような内容なんだけど…。
色々考えて、ふと時計を見ると、18時45分だった。
「あ…」
荷物をまとめる。
「帰るの?」
坂下先輩がこっちを見た。
「はい。19時30分の電車が一番混雑しないんで」
「へぇ。電車なんだ。途中まで一緒にいってもいい?」
断ることができない質問をどうしてするんだろうか。
「え…はい。 」
坂下先輩と並んで歩きながら、駅へと向かう。
「ねぇ、田ノ浦くんは、デンシャって知ってる?」
「電車くらいは知ってますよ」
「いやいや、澱みに、捨てるって書くほうの澱捨」
坂下先輩が空中に指で文字を書いて見せる。
「…なんですか、それ」
「19時30分の電車が空いてる理由だよ。あの周辺は、昔悪いものを捨ててた場所なんだって。電車の線路を作るときに、その悪いものを封印しているところを壊しちゃったんだって。それで、捨てられたものが、電車に取り憑いて…。」
坂下先輩がわざとおどろおどろしい口調で言う。
「ばっかばかしい…」
「田ノ浦くん、こういうの信じないんだ?」
「信じないって言うか…、ばかばかしいじゃないっすか。悪いものってそもそも何だって感じだし…」
「そっか…。結構、幽霊見たっていう人もいるんだよ。気をつけてね。もし、幽霊見たら、絶対に反応しちゃだめだよ?」
「はーい。」
「じゃあね」
「おつかれっしたー」
俺は坂下先輩と別れて、階段を降り、駅に入っていく。
幽霊の音って、あるのかな?
 19時30分、定刻通りに迎えに来た電車に乗って、緑色のベルベットに腰を下ろす。
一駅進んだ後、隣の車両で何かあったらしく、電車がしばらく止まった。
別に急ぐわけでもない、とスマホを開いてゲームを始める。
電車が動き出す。
あぁ…やっと動き出した。
ふと顔を上げると、隣の車両から男がこっちをのぞいていた。
入ってくるわけでもなく、男は立ち去る。
最近、変な奴も増えたな…。
また、男がこちらをのぞいていた。
男の顔がみるみる青ざめて行くのがわかった。
大丈夫かな?…でも、俺には関係ない…。
 アナウンスが到着を告げた。
ホームに降りると、先ほどの男が急いで改札を抜けていくのがわかった。
そして、その男のカバンから手袋が落ちるのも。手袋を拾い、ため息をついた。
こんな高そうな皮の手袋じゃなければ、捨てたままでも良かったはずなのに。
滑らかで肌触りの良い手袋を握りしめ、男を追った。
あの人、足が速すぎる…。
人混みをかき分け、やっと男に近づく。
男は、スマホを耳に押し当てて、青くなった顔をさらに青くして、辺りを見回し始めた。
「あの…」
男の肩を掴もうとした手は躱され、男は車道へと走って行った。
…バンッ
 スポーツカーのフロントが大きく凹む。
さっきまで青い顔をしていた男は、数メートル先で寝転んでいる。
俺のものではない手袋を握りしめ、俺は逃げ出した。
気がつくと、アパートに帰っていた。
忘れよう、そう思っても、持ち帰ってしまった手袋が忘れることを許さなかった。
 …バンッ
 隣の部屋の住人が帰ってきたようだ。
怒鳴り声と泣き声。
俺は、手袋を持って、駅に向かう。
一晩眠って考えた。
駅で拾ったと言って、手袋を駅員に渡すのが、一番良いという結論に達した。
朝は時間が無かったので、帰りの、19時30分の電車で渡そう。
 19時30分、いつもの時間にいつもの電車がホームに迎えに来る。
赤いベルベットに腰を掛けて、かばんの中から手袋を取り出す。
降りる駅でいいよな?あそこで拾ったんだし…。
「…あの」
女の人の声がした。
顔を上げると、青白い顔をしたスーツ姿の女が、俺を見下ろしていた。
「はい?」
返事をすると、青白い顔の女はにっこりと嬉しそうに笑った。
その笑顔に、坂下先輩を思い出した。
「なんですか?」
「ううん。なんでもないの…」
なんなんだ?
怪訝そうな顔で睨んでいると、女は背を向けて歩き出した。
女は俺の向かい側の椅子に座ってこちらを見た。
笑顔を貼り付けたまま。
女に違和感を覚えて見ていると、気づいた。
女が、窓に映っていない。
反射した向かいの窓には、俺だけがいた。
 『反応しちゃだめだよ』
坂下先輩の声が耳の中にこだました。
辺りを見ると、女子高生が三人、俺のほうを見ていた。
目が合うと三人はすぐに目を逸らしてヒソヒソと話し始めた。
血の気が引いていくのがわかった。
 ふらつく足で立ち上がり、ドアへと向かう。
アナウンスが流れ、ドアが開く。
降りよう…
鉛のように重い足を引きずって、改札に向かう。
「…あの」
背後から女の人の声がした。
『反応しちゃだめだよ』
坂下先輩の声が頭の中で響いた。
俺は振り返らずに、改札を抜け、階段を登る。「ねぇ!」
後ろに強く引っ張られた。
足が地面から離れていく。
白い蛍光灯が見えた。
驚きに見開かれた目。
階段。
体がぶつかる。
…バンッ。
転がっていく。
…グシャッ。
あの声は音として認識されるものだろうか?
意識があったのはそこまでだった。