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気づいたら、隣で眠っていた。腕が自分を抱きしめるみたいに回されていて、逃げ場なんてない。
――あぁ、この人。
壊して、支配して、それでいて「自分のものだ」って顔して寝てる。
胸がざわつく。
虚しさと、どうしようもなく熱いものが混ざって。
静かに腕をほどき、足元に目を落とす。
ホックは止められていて、ワンピースもきちんと着せられていた。
……乱暴に抱かれたのに、最後にこんな風に整えられてるのが、余計に腹立たしい。
洗面所へ向かう。
鏡に映った自分は、涙の跡が残り、髪は乱れて――とてもじゃないけど、このまま外には出られない。
蛇口をひねり、そっとシャワーを浴びる。
熱いはずの水が、全然温かく感じなかった。
熱いシャワーの水に打たれながら、頭を抱えた。
どうしても涙が止まらない。
足も腰もまだ震えている。
肌には、彼に噛まれた痕がいくつも残っていて――それを見るたび胸が締めつけられた。
……抱かれたくなんてなかった。
彼のことが――昔から好きだったから。
ファンとして。人として。
彼の作る音楽と、ステージで歌う姿が、本当に好きだった。
まだ小さなライブハウスにいた頃、話したことだってある。
明るくて、おもしろくて、笑わせてくれる人だった。
あのときの自分は、ただ「この人のこと、好きだな」って思っていた。
それなのに――。
ある時から荒れて、何かを埋めるように見た目が派手になって。
よくない噂ばかり耳に入るようになって。
……それでも、彼の作る音楽だけは嫌いになれなかった。
だから、恋人になりたいとか、抱かれたいなんて思ったことは一度もない。
人として好きだったから。
だからこそ、近づきたくなかった。
側で応援するしか、なかったから。
涙が止まらないまま、タオルで震える身体を丁寧に拭う。
洗面所に置いたブラを身につけ、ベッドの下に落ちていたショーツを拾って足を通す。
その上から、乱れたワンピースを着直した。
髪はタオルで何度も押さえて水気を吸わせる。
ドライヤーの音は彼を起こしてしまう気がして――備え付けの黒いゴムでひとまとめに結わえた。
ソファに投げ出されていた自分の鞄を肩に掛け、財布を取り出す。
ベッド脇のサイドテーブルに無造作に置かれていた彼のスマホ。
その下に、一万円札を滑り込ませる。
女癖が悪いという噂はいくらでも聞いてきた。
でも、彼がどんな風に女性を抱いてきたのかなんて、私は知らない。
ただ一つ確かなのは――“私は抱かれた”。
抱かれたら、ただの遊びの女。
きっと都合よく、これからも消費されるだけ。
そして私は、遊びの女ではない。
だからこの一万円札は、別れの証。
彼のやり方を踏みにじってでも、私の存在を刻むために。
「……さようなら」
眠りに落ちる彼の横顔を見つめ、かすかに囁いた。
彼の寝顔は、昔のステージにいた頃の、優しい顔つきだった。
きゅっと結んだ唇が、子どもみたいにわずかに動いて――まるで夢の中で、言葉を探しているみたいに。
――もう、あなたの音楽は聴けない。
ごめんなさい。そして、さようなら。
そっと気づかれないようにフロントに電話をかけ、施錠を解いてもらう。
ブーツに静かに足を通し、チャックをしめる。
重い扉に手をかけ、ゆっくりと押し開けた。
外の薄暗い廊下に一歩踏み出した瞬間――
すべての感情を置いていくように、背中でそっと扉が閉まった。
扉の向こうに彼が眠っている。
二度と戻らないと決めたのに――胸の奥の痛みだけは、どうしても消えてくれなかった。
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何時間眠っていたのか、わからない。
目を覚ました瞬間――腕の中にあるはずの温もりが、消えていることに気づいた。
「……は?」
喉がかすれた声を漏らし、慌てて上体を起こす。
確かに、抱きしめたまま眠ったはずだった。
布団の隣は冷たく、空っぽだ。
信じたくなくて顔に手を押し当て、荒く息を吐く。
視線がふとベッド脇のサイドテーブルに向かう。
無造作に置かれた自分のスマホ。その下に――
一枚の万札。
女との関係は、お互いに金のやりとりなんてしない。
女は「抱かれること」を誇りにして、俺はただ欲を満たす。
利害は一致していて、だからこそ成立していた。
抱いて、壊せば、自分のものにできると思っていた。
彼女、という感覚じゃなくても――他の誰にもない、所有したい衝動があった。
なのに。
白い紙切れ一枚で、すべてを断ち切られた。
血の気が引いた。
瞬時に理解する。
――俺が切り捨てられた、と。
その瞬間、胸の奥がごうごうと燃え上がる。
冷たさと怒りが入り混じり、喉の奥からこみ上げるのは、笑いとも嗚咽ともつかない声。
「……はは。ふざけんなよ」
握りしめた拳が震える。
吐き出した煙よりも苦い怒りが、全身を焼いていく。
その日を境に、俺は壊れた。
ライブでは注意されるほど暴れ、
女を抱いては「帰れ」と突き放し、
また違う女を呼んで取っ替え引っ替え抱いた。
虚しさを埋めるために、酒を浴びるように飲む。
タバコの本数も気づけば倍に増えていた。
朝まで潰れて、吐き気と虚無を抱えたまま床に転がり込む。
リハや練習を遅刻し、何度もすっぽかした。
タトゥーも増やした。
綺麗だった右腕――その手首の内側に。
針の痛みで皮膚を裂かれている間だけ、少し楽になれた。
どうしようもなく抑えきれない夜は、ステージでギターを叩き壊した。
破片と歪んだ音が飛び散る一瞬だけ、虚無がかき消える。
――だが、何も変わらない。
歌うことですら、もう俺を救ってはくれなかった。
そんな荒れ狂った日々を――ただ、繰り返した。
いくら女を抱こうが、思い出すのはあの女の顔。
いくら壊そうが、自分を削ろうが、満たされない。
彼女はあの日以来、現れなかった。
そもそも、存在していたかもわからない。
……ただ、机の上に置かれた一万円札だけは、いまも財布の奥で眠っている。
破り捨てることもできず、使うこともできないまま。
それは傷口に突き刺さったままのガラス片みたいに、ずっと胸をえぐり続けていた。