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──まるで海底。しかも日が差し込むことを拒否したかのような、冷たくて暗い海底のような薄暗い部屋。
部屋にはツンとする薬品臭が漂い、壁にはびっしりとホルマリン漬けの標本と、分厚い本がずらりと並ぶ。
英語でラベリングされた瓶の中身は白濁していてよく分からなかったが眼を凝らせば人の顔らしきものが、ぼんやりと浮かんでいる。
この部屋の空気を察した常人なら、瓶の中身を知りたいと思わないだろう。
不気味そのものの部屋の中央には、大きな実験台まであった。
台の上には赤黒い染みが幾つも浮かんでいる。
その染みの正体は何かと問わなくても、この室内を目にした人は、染みの正体をすぐに当てれるだろう。
しかし、実験台の前に佇む二人の人物はそんな不気味な染みや、壁に並んだ薄気味悪いホルマリン漬けにも意に介さないようで、じっとお互いに睨みあっていた。
口火を切ったのは白衣の男。
「ホゥ。君はそれで、おめおめと希少な実験体を、あの若造に奪われたというのか」
「そ、それはそうだが、仕方なかったんだ! 俺だって連れ去れるのを黙って見ていた訳じゃない。止めようとしたら、アイツは迷わずに軍刀を抜いて来たんだ!」
白衣の男に弁明したのは洋装の男。
酷く焦った表情をしている。
平素の落ち着いた様子なら、さぞ美男子振りも映えると思われたが、今はその顔に苦渋を浮かべていた。
「あの男は憎々しいが武芸も達者だ。俺が敵うわけがない!」
「ハァ。君に渡している銃は何のためかね。子供の玩具ではないのだヨ」
白衣の男は不機嫌さを隠さない。
カツカツと床を忙しく足で叩くと、洋装の男が、くわっと口を開いた。
「そちらだって、意気揚々と新実験の成果とやらで、あの男を森で亡き者にすると大口を叩いていたのに、殺し損ねたじゃないかっ!」
カツカツと足が鳴る音は止む気配はない。
「何を言う。君が非検体と挙式をあげていれば、何ら問題はなかった。つまらない正義を振り翳し、小生を何かと邪魔する小うるさい男はちゃんと殺せていた。あの森は君の所有地。事件は幾らでも揉み消せる。何かあったとしても君は挙式という、アリバイに身を守られるはずだっタ」
カツカツ、カツカツッ。
足を踏み鳴らす音は加速するばかり。白衣の男の口調も釣られるように早くなる。
「挙式も上げれず、非検体を取り戻すこともままならない。そんな君に責められる言われはないネ」
白衣の男の容赦ない攻める口調に、ぐうっと洋装の男が息を飲み込み、ギシッと歯噛みする音が部屋に響いた。
次の瞬間には洋装の男の怒りが沸点に達し、海底マグマの如く、地表に爆発するのではと空気が張り詰めた瞬間。
沸騰した怒りを鎮めるかのように、白衣の男の一際大きな靴音が、カツンッ! と部屋に響き渡った。
「しかしだヨ。そんなことは最終的に目的が達成すれば、何も問題ない。過去の過程に文句を言うのはここまでにしようじゃないカ。失敗など成功の前触れにしか過ぎない」
フフッと白衣の男が嗤えば、洋装の男は毒気を抜かれたように、はぁっと深く息を吐き出して髪をぐしゃっと掻き上げた。
「……分かった。僕達がいがみ合っても仕方ない。僕達は一蓮托生だしな。どうせ次の手があると言うことだろ。それを実行したらいいんだな?」
そうだと、白衣の男はほくそ笑む。
そして懐から茶色のアンプルを取り出して笑みを深くしした。
「これは数々の実験の副産物の薬。|蟾酥《せんそ》、|阿芙蓉《あふよう》、|鹿茸《ろくじょう》を混ぜたもの。他にも|朝鮮朝顔《ちょうせんあさがお》、ベラドンナ。ブロムワレリル尿素を加えたものだヨ」
白衣の男がペラペラと早口で喋った。
耳慣れない単語の羅列でも、洋装の男はふむと頷く。
「薬による媚薬成分、感情増幅。眩暈や思考停止……記憶遮断を引き起こす薬か」
洋装の男はさらりと成分を言い当てた。
どうやら洋装の男は薬の知識があるらしい。
冷静にアンプルを見つめる瞳には知的さが見えた。
そして先ほどの噴出しそうな怒りは、なりを顰めて白衣の男が持つアンプルを、興味深くじっと見つめている。
白衣の男はアンプルの中でも、一際茶色の深い色のものをねっとりと見つめた。
「どれも手慰めみたいなものだが、これは特に小生のお気に入り。エフェドリンの結晶化は未完成とはいえ覚醒薬として優秀だヨ。ワインなどに入れて飲ませたら、相手を好きなように出来るんじゃないかなァ」
「あぁ、そう言えば帝都の|偕行社《かいこうしゃ》で集会があるな」
──偕行社とは各地に設置されいる軍関係者の研究・親睦・共済を目的とし、食事会や懇親会も開かれる集会所・クラブだ。
集会所とは言うが、帝都とにあるそれは舞踏会が開かれても問題ないほどに華やかで立派な洋館。
高級将校集会所と行ってもいいだろう。
男達はそこで何をすればいいかと、以心伝心しているかのようにお互いを見つめあった。
そして鏡写しのように同時に、ニヤリと口元を吊り上げた。
「集会までには時間がある。それまでに小生達はしばし策を練り、実験をしよう。実験は積み重ねるほどに精度が増すからネ。準備万全で次こそ目的を達成させようじゃないか。話はそれからだ」
今は我慢のときだと、白衣の男はヒヒッと笑った。
洋装の男は頷き、白衣の男の手からアンプルの数々を受け取る。
それらを見ながら洋装の男が口を静かに開いた。
「それと──彼女のことを非検体というのはやめてくれ。あれは僕の人魚姫だ。誰にも渡さない。やっと当主になって家の物は全て僕のモノになった。だから人魚姫も僕のモノ。僕だけが人魚姫を自由に扱っていい権利がある。そして──血の一滴まで僕が支配する」
「ヒヒッ。実に若者らしい。いやはや、独占欲と探究心は『愛』があってこそだネ」
──愛。
白衣の男が唱える愛に否定するものいなかった。
ただ海底の奥底から湧き立つ気泡のように、低い笑い声がいつまでも室内に響いていたのだった。
コメント
1件
第10話読んだわ。薄暗い実験室の描写がめちゃくちゃ生々しくて、ホルマリン漬けの瓶とか実験台の染みで一気に不穏な空気に引き込まれた。白衣の男と洋装の男の掛け合い、お互いを責めながらも結局は共犯関係ってとこが気持ち悪くて好き。薬の成分とか効果が細かく書かれてて、「あ、この人本当に研究してるんだな」ってリアリティがあったわ。そして「人魚姫」って呼び方に滲む歪んだ独占欲がめっちゃ嫌な感じで続きが気になる。次の展開でこの薬がどう使われるのか、震えながら待つわ。