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草原草原(くさはらそうげん)

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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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手が、上がったままだ。
千歳は、目を閉じない。閉じると思っていた。十年、藤乃の手が上がるたびに、閉じてきた。今は、閉じない。男の顔を、見ている。男は、千歳を見ていない。千歳の肩越しの、戸を見ている。
背中に、何かが、当たる。
戸越しに。障子越しに。
小さい。掌ほどの、小さなものが、千歳の背中の、ちょうど肩甲骨の下に、押し当てられている。
千歳は、動かない。動けない。
男の手が、止まった。
男の目が、千歳の肩の横の、障子に落ちている。千歳は、首を回した。
障子に、影があった。
小さな、手の影。五本の指が、障子の紙の裏から、こちらへ、押しつけられている。千歳の背中の、まさにその位置に。
声がした。
「……おねえさま?」
幼かった。
千歳は、息を止めた。男も、止めた。
おねえさま。
梢の呼ぶ、お姉さま、とは、違った。もっと、小さい。もっと、頼りない。障子一枚の向こうから、千歳の背中に手を当てて、聞いている声だ。あなたは、そこにいるのか、と。
「開けろ」
後ろで、恭介が言った。
男は、動かない。手を、上げたまま、動かない。千歳の背中の影と、幼い声と、どちらも、恭介が言った狂女とは、かけ離れていた。それが、男の手を止めていた。
「何をしている。開けろと言っている」
「女中の子でも、入れてるんでしょう」
藤乃の声だった。整った声に、戻っていた。
「子どもの声を使って、庇い立てを。見苦しいこと」
千歳は、藤乃を見なかった。
障子の影を見ていた。小さな手は、まだ、そこにある。震えているのが、紙越しに、分かった。
千歳は、戸の内側に、声をかけた。
初めてだった。縁側から、庭を渡して話したことはある。戸の外で、戸に向かって、言うのは、初めてだった。
「ここに、います」
声は、小さかった。小さいまま、言った。
「開けさせません」
障子の手が、動いた。
離れなかった。離れずに、少し、強く、押された。千歳の背中に。ここにいる、と、答えるように。
千歳は、鍵束を抱えた腕に、力を入れた。
この戸の内側から、毎朝、見られていた。廊下を拭く手を。今朝の膳を、この人が食べた。昨日の、おやすみなさい、を、この人が聞いた。
口が、動いた。
声には、ならなかった。節だけが、口の中で、動いた。土間で、知らずに歌っていた節。母の、文句の思い出せない歌。
背中の手が、それに合わせるように、一度、小さく、動いた。
千歳の後ろで、足音が集まってきた。
振り返らなかった。振り返らなくても、分かった。お初の足音。文の、転びかけて立て直す足音。とよの、引きずるような足音。そして、柘植の、まっすぐな足音。
四人が、千歳の後ろに、並んだ。離れの戸と、千歳と、四人と。恭介の供の二人を、梅の木の下に、押し返す形になった。
「あたしたちは、ここにいますよ」
お初の声だった。朝、窓の前で言ったのと、同じ言葉だった。
「どけ」
男が言った。言ったが、手は、下りていた。もう一人の男は、恭介を見ていた。恭介の顔は、赤かった。
「恭介殿」
年寄りの声がした。
「これは……」
「黙っておれ」
恭介が、自分で、前に出てきた。扇子を握っている。供の二人を押しのけ、四人の前を抜けて、千歳の前に立った。背が、男たちより低い。それでも、千歳を見下ろした。
「夫人。最後だ。どけ」
「お渡しできません」
千歳は言った。鍵のことか、戸のことか、自分でも、どちらとも言えなかった。どちらも、だった。
「この家は、旦那様から、預かっています。この戸も」
千歳は、動かなかった。
背中の手が、動かなかった。
「身代わりの分際で」
恭介の手が、扇子ごと、上がる。
後ろで、柘植が一歩出る音がする。お初が、文が、とよが、何かを言う。藤乃だけが、黙っている。黙って、扇子の先を見ている。
千歳は、背中の小さな手を、背中で、感じていた。この手が、見ている。障子越しに、今、何が起きるかを。見られたくない人が、見ている。だから、目を閉じなかった。
門のほうで、音がした。
車の音だ。止まる音。御堂の自動車より小さな、雇いの車の音だ。
「旦那様」
権田の声が、門から、庭を渡ってきた。
千歳の後ろの、障子の手が、びくりと動いた。
恭介の手が、止まった。
梅の木の間から、人が来た。
外套を着たままだ。鞄を、右手に提げている。帽子は、かぶっていない。汽車から、そのまま来た人の姿だった。
玲司だった。
予定より、早かった。あと二日、と恭介は言った。それが、今、梅の木の列を抜けて、歩いてくる。速くはない。いつもの速さだ。千歳が遅れずに歩けるようになった、あの速さだ。
藤乃が、一歩、下がった。
恭介の扇子が、下りた。下りて、握られたままだった。
玲司は、庭の真ん中で、足を止めた。
千歳を、見る。
足袋のままの足。胸に抱えた鍵束。戸につけた背中。その後ろに並ぶ、四人。
それから、千歳の肩の横の、障子を見た。小さな手の影が、まだ、そこにある。玲司の目が、その影の上で、一度、止まる。長くはなかった。長くはなかったが、千歳は、それを見た。
それから、恭介に、向いた。
「叔父上」
声は、低かった。いつもより、低かった。
「妻に、何をしている」
コメント
1件
いやもう、この回すごかった……。背中に感じる小さな手の存在が、ずっと物語の核になってた「この家の内側」の象徴でさ。千歳が「開けさせません」って声に出したとき、もう鳥肌立ったわ。玲司が帰ってくるタイミングも完璧だし、恭介の扇子が下りた瞬間の空気感がたまらん。読んでるこっちまで息止めてた。草原草原さんの人間ドラマの描き方、毎回刺さりすぎてる🔥