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「ノンネットがあそこまで知ってたとはね」とエーミは呟く。
聖ミシャ大寺院を覆う神聖な白樺の森の暗闇をシャリューレとエーミは行く。救済機構において救済の乙女の次に尊ばれている第一聖女の遺した篝火塔の聖火も森の中を照らすには至らない。
入った時と違い、今度は決して加護官に見つかるわけにはいかない。エーミがケブシュテラと共に通ったという道なき道を進む。
「あそこまで? 本来は知られていないはずなのか?」とシャリューレは淡々と言った。
「詳しくは、ね。ほら、シャリューレの経歴って複雑だから。機構の改竄も複雑になったんだよね。普通は、つまり一般人が知っているのは裏切り者の僧兵ってことくらいじゃないかな。でも護女の立場なら、シャリューレが機構を裏切る前のこともある程度は知れる。僧兵が裏切ったってこと自体、本当は隠し通したかったんだと思うけど。まあ、首席焚書官だったってことが世間に広まらなかっただけましなのかな」
シャリューレは過去に思いを馳せるが、しかしエーミは別のことに注意を向けていた。
「ん? 何? あの明かり。火事?」
そう言ってエーミが指さした空は深い夜にもかかわらず日暮れの如く赤く色づき、天に歯向かう不遜な蛇のように黒い煙が幾筋か立ち昇っている。
シャリューレは元々盗賊団と共に立てていた大仕事の計画について説明する。盗みが上手くいかないなら混乱を生めと命じていた。計画は滅茶苦茶になったが、おそらく部下によって何とか実行されたのだと推測する。
「ああ、そういえば元々魔導書を盗みに来たところで会ったんだったね」とエーミは昔を懐かしむように言う。
恩寵審査会での姿の見えない謎の護女の手助けがなければ魔導書は手に入らなかったかもしれない。
「エーミはなぜあそこで私を見つけることができたんだ?」
「ん? まあ、偶然というか、必然というか。どちらとも言えるというか」
シャリューレにとってもそれは同じだった。数年前から己にだけ感じていた西風に導かれているのだとそう思っていたことも、この作戦を志願した理由の一つだった。風は吹かなくなったが、確かにレモニカに出会うことができた。ヴェガネラ様のお導きなのだと、確信していた。
そしてレモニカと再会し、様々な事情が変わったことをエーミに話す。
「元護女で、元首席焚書官。本当に変わった経歴。ああ、でもアンソルーペも似たような経歴だったような」エーミが朧げな記憶を探りながら言う。「じゃあシャリューレはその首席焚書官時代の鉄仮面をかぶっていたから会議に連れ込まれたってこと? シャリューレって意外と……。でも何でそんな物、持ってきたの?」
「これがあれば……」言いかけてシャリューレは立ち止まる。「待て、エーミ。何かおかしくないか? 本当にこの道であってるのか?」
周囲は変わらず暗闇で、白樺の森だ。もしも道に迷ったのならすぐに気づくはずだが、シャリューレはここまで何の違和感も抱いていなかった。
「え? 間違えるはずないよ。今までに何度も何度も……あれ? 何であそこに聖典の伽藍があるの?」
「どうやら何者かに化かされているらしい」剣を抜き放ってそう言うと、シャリューレは切っ先で探るかのように周囲を警戒する。
星一つない夜の森でシャリューレの鋭敏な感覚が気配を探る。葉擦れの音、湿り気を帯びた空気の揺らぎ、遠くの松明の火の粉、月を隠す雲のうねりまで感じ取ってなお、二人の他の誰の存在もつかめない。
「ねえねえ、どこに連れて行くの? その子」と聞こえたのが人の声なのか、葉擦れの音なのか、己の吐息なのかすらすぐにつかめず混乱する。「護女だよね。怪しいなあ。こんな夜中に焚書官と護女? 怪しいなあ。しかも首席じゃない?」
エーミが小さく悲鳴を上げてシャリューレの手にすがる。
「何者だ?」とシャリューレは相手が目の前にいるかのような声の大きさで話しかける。
「こっちだよ、質問してるのは。その護女をどこに連れて行くのかって聞いてるの」
女の声だ。自身と年の頃が近い、とシャリューレは思った。だがそれ以上は何もつかめない。
「エーミは、この人に助けてもらうんだよ。邪魔しないで」エーミは暗闇の向こうを睨みつけて言う。
「ふうん。エーミの言い分は分かった。そっちのお姉さんは? 何のために助けるの? 人助け? 人攫い?」
「紆余曲折あったが、今は護女を救うために動いている。この子は望まずここに連れて来られた。人助け、といえばその通りだが、私にもまた因縁がある」
「どうしてその子だけ? もっといっぱいいるでしょ、護女は」と白樺の森の暗闇の声は言う。
「逃げたいのはエーミとケブシュテラだけ」とエーミは必死に擁護する。「ケブシュテラがどこにいるのかは分からないけど、たぶん聖火の伽藍にいる。だとしたらエーミは足手纏いだから先に逃がしてくれるの」
シャリューレが言葉を継ぐ。「補足すると、エーミがここに連れて来られた時点で、他の護女は全員志望者であり、攫われてきた者はいなかったそうだ。エーミ以後はケブシュテラが初めてだ」
「そう言わされているだけかもしれないじゃない」と声だけの女は言う。
「だとしても抵抗する百人以上の護女を連れ去るのは不可能だ」とシャリューレは言い切る。
もしも全員が攫われてきたのだとしたら、自分は彼女たちを救い出そうとしただろうか、と自問する。
シャリューレはとうとう気配をつかみ、そちらに剣の切っ先を向けると、紺の長衣の女が姿を現していた。
「君と同じく護女を救いに来た」と言う女の唇は親し気に笑みを浮かべているが、その眼差しは今なおシャリューレを探っている。
「争う理由はなくなったと考えていいか?」とシャリューレは尋ねた。
「その前に紆余曲折について尋ねてもいい?」と琥珀色の瞳の女は尋ね返す。
シャリューレは少し迷うが口を開く。「元々は魔導書を探していた。しかしより優先すべき探し人を見つけ、ここへ来た。だが恩人でもあるエーミをさらに優先して助けることにした」
「ん? もしかしてシャリューレ? 探し人ってレモニカ?」と女は言う。
「知っているのか!? 今どこに!?」とシャリューレは強く問いただす。
「知ってる。友達だよ。でも、君に攫われたって聞いてたんだけど?」と言って女はおどけるように眉を上げる。
「ああ、そしてその後、おそらく救済機構の関係者にさらわれた」と言うシャリューレは悔しさを滲ませる。
「そう。それでここへ助けに来たってわけね。魔導書より優先したレモニカよりエーミを優先するのか。はっきり言って何を考えているのかよく分からないな」
「説明するのは難しい」
エーミは浮かび上がるシャリューレを地上に留めるかのように、その腕につかまる。
「そっか。完全には信用できないね、悪いけど。でも協力しても良い。なんせ紆余曲折あっても今の目的は一致しているわけだからね」
女の声が背後から聞こえていることにシャリューレは気づく。
「助かる」そう言ってシャリューレは剣を収める。
女は多少柔和な笑みを浮かべて言う。「さて、私は護女が大陸中から攫われてきた子供たちの一部だという証拠を得てここへ来た。貴女たちの言い分とは食い違うけど」
「いや、違わない」とシャリューレは否む。「確かにかつて護女は攫われた少女たちだった。私もまた、ある方の願いに応えるべく、かつて護女を率いて集団脱走したのだ。それでも人攫いは止まらなかったが、数年後、救済機構が救童軍を設立し、人攫いを駆逐し始めた。おそらく何らかの事情で護女の数を必要としなくなり、末端を処分するついでに栄誉を得るべく人攫い狩りを始めたのだろう」
「いや、違う」そう言って女はエーミを見下ろす。「エーミは何歳? 攫われてきたのはいつ?」
「十二歳。二年前」とエーミは素直に呟く。
「救童軍が解散したのは十年近く前だよ」と女は指摘する。「その後八年間が無実だったとは限らない」
「確かに攫われた子供たちの使い道が他にもあったのかもしれない」女の指摘を認めつつ、シャリューレは言葉を返す。「だとしても貴様は護女を助けに来たのだろう? 護女を助けに来ただけなのだろう? だが彼女らはそれを望んでいない、ただ一人を除いて。今現在救える者を救う他ないだろう」
女は今度はシャリューレを見つめて言葉を探る。
「そうだね」女は何度か頷く。「とりあえずはエーミを救うのが先決だ。後のことは後で考えるよ。私について来て」
シャリューレとエーミは堅く手を握り、慎重に女の後を追う。二人もまた女を信用しているわけではない。しかし、また森の中に迷わされてはたまらない。
「その木を左に曲がるよ」と女が指さした木を左に曲がって立ち止まる。「おっと、御立合い」
シャリューレとエーミも後に続くと、いつの間にか遥か高い石壁の上に立っていた。聖ミシャ大寺院を囲む石壁だ。
そして眼下には数えきれないほどの僧兵が集まっている。焚書官も混じっていた。しかし僧兵たちの意識は外へ向かっている。何者かの、それはおそらく盗賊団の、侵入、襲撃を警戒しているのだ。
「ここにも来たか」と女が呟く。「まあ聖女と護女のいるここ聖ミシャ。それに聖ラムゼリカ、聖ヴィクフォレータ、聖ターティアの寺院を重点的に守護してるしね」
女があげた聖ミシャ以外の寺院は、四つの魔導書が秘匿されているとシャリューレが見込んでいた寺院だ。もう一つは聖カイヴィ宣教寺院にあると確信していたが、それはもう昔の話なのだと気づく。この数多の僧兵たちによる物々しい警備こそが、今まさにここ、聖ミシャ大寺院に魔導書が存在する証だ。
「いずれ焚書官も雪崩れ込んでくるな」とシャリューレは悩まし気に呟く。
「一つお願いして良い?」と言ってエーミがシャリューレの袖を引く。「魔導書を奪いに戻るならケブシュテラも助け出してね?」
「いや……、まずはエーミを連れ出すと言っただろう。私は、別に……」シャリューレは言い淀み、目をそらす。
そらした先で迷い惑わす女が冷たい笑みを浮かべている。
「エーミのことは任せてくれていいよ。ジンテラ市と言わずシグニカの外まで連れて行ってあげる。他の護女は連れ帰れそうにないし、他の用事は済んだし」
「ここを切り抜けられるのか?」とシャリューレは尋ねる。
「何一つ問題ないよ、連れ出すだけならね」と女は請け負う。
「分かった。頼む」とシャリューレは女に言い、「そしてケブシュテラのことも任せてくれ」そう言ってシャリューレは鹿の鉄仮面を脱いで、エーミにかぶせる。「本来ジンテラを出入りできない者に役立つはずだ」
石壁を飛び降りて戻ろうとするシャリューレを女は引き留める。「名前、教えてよ」
シャリューレは怪訝な表情を浮かべる。「シャリューレだと名乗ったはずだが」
「それは力ある名前、実り名でしょ?」と女は言った。「本名は?」
「いや、私は……」
本当の名前を知らない。あったような気がするが覚えていない。シャリューレは気が付けばシャリューレだった。
シャリューレは今になってその女が群青色の石飾りを二つ、首から下げていることに気づいた。ジェスランが持っていた物と寸分違わない。
「……ネドマリア」とシャリューレは舌触りを確かめるように呟く。
女は眉根を寄せて尋ねる。「私、名乗ったっけ?」
「……ああ」シャリューレは確信に満ちた瞳で頷く。「では、さらばだ。エーミ。ネドマリア」
そう言い残して、シャリューレは石壁を飛び降り、白樺の森に揺蕩う闇の奥へ溶けて消えた。