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今回そう長い期間ではなかったとはいえ、出版社から提示されていた締め切りを守らず記憶喪失で姿を消していたこと。 日和美のそばにいたくて、それじゃなくても時間にゆとりがないのにマンションと日和美のアパートを往復する無駄時間を過ごしていたこと。
それらが仇になって珍しく原稿を落としそうになった信武だ。
デビューして以来、こんなことはなかったのだから一度ぐらい大目に見てくれてもいいのに、どうやら出版社側の判断は信武とは真逆。
〝原稿を落とさない作家〟と言う実績をどうしても守らせたかったらしい。
だが、タイミングが悪すぎて信武としては納得がいかなかったのだから仕方がない。
「先生って言うのはね、私ら編集に迷惑をかけない有難ぁーい存在に対してのみ使われる呼称なの! 分かる?」
「嘘つけ」
信武は締切り破り常習犯の作家仲間が、ご丁寧に○○先生と(時には猫撫で声で)編集者から呼ばれているのを知っている。
なのに自分はこの担当から締め切りを守ろうが守るまいが先生だなんて呼ばれたこと、それこそ公の場以外ではただの一度もないのだ。
そもそもこんな風に作家の自宅へ自由に出入り出来る――要するに合鍵を持っている――不届きな編集者がそんなに居てたまるか!というのが信武の言い分だ。
まぁそれもそのはず。
目の前の女・土屋茉莉奈は、父・立神信真の実姉・土屋沙耶香の一人娘。信武にとっては従姉に当たる、いわゆる身内なのだから。
六つ年上の茉莉奈は、幼い頃から頭脳明晰容姿端麗で、何かと面倒見の良い姉御肌。
実際信武は高校受験や大学受験の折、家庭教師として彼女に勉強を教えてもらったことがある。
茉莉奈は大学を卒業すると同時に信武の父親が社長を務める大手出版社『玄武書院』で編集者として働き始めていたから、信武が大学受験の時にはすでに社会人。
それなのに、時間をやりくりして信武の勉強を見てくれた、いわゆる恩人なのだ。
子供心にそんな茉莉奈のことを〝異性として〟意識していた時期もある信武だけれど、まぁいま思えばあんなの、一過性の流行病みたいなもの。
日和美のことを本気で想うようになったから余計に分かる。
憧れと恋愛は別物だ、と――。
***
Webpediaにも出ているように、信武は高校生のころ『丸川書店』が主催する『マルカワ雷撃文庫』で新人賞を獲って商業作家デビューを果たしたのだが、その当時すでに『玄武書院』で編集者として働いていた茉莉奈が、「信武のバカ! 何でよそに応募するのよ!」とすごく悔しがったのを覚えている。
信武としては信真や茉莉奈のいる『玄武書院』の公募へチャレンジすることだけはなしだと思っていただけなのだけれど……。
広いようで狭い業界。
いくらよその出版社に出しても、デビューが決まるほどの傑作を生み出してしまえば、素性にだって自然と気付かれるもので。
ましてや信武は本名(Shinobu Lichères Tatsugami)のミドルネーム、〝Lichères〟をちょっぴり変化させただけの〝リシュエール〟をペンネームにしてしまっていたから、余計にバレやすかった。
丸川書店の社長とも懇意にしていた父親に受賞と作家デビューのことがダダ漏れてしまった結果、茉莉奈にも伝わったのだ。
当時はまだ実家住まいだったため、どうしても受賞の連絡あれこれは家の方の連絡先を使わないわけにはいかなかったのだから仕方がない。
応募の際に記載したミドルネーム抜きの本名〝立神信武〟という割と目立つ名前も後押しして、丸川の社長もすぐに「おや、この名前は……」と気付いたらしい。
結局デビュー作の『ひとりぼっちの竜王と、嫌われものの毒姫さま』のみリシュエールのペンネームで丸川書店から。
以後は丸っと父親の出版社『玄武書院』へ引き受けられる形になって、ペンネームもその時にリシュエールから立神信武に統一した信武だ。
そうしたのにはちゃんと理由があって――。
父親の威光のせいで勝手に色々捻じ曲げられ、玄武書院へ無理矢理引っ張られたから。社長と同じ〝立神〟の名を冠して作家になることは、信武にとってある種の枷のつもりだったのだ。
あとで下手に他者から社長と血縁だと暴かれ、親のコネデビューなんじゃないかと言われたくなくて、あらかじめ最初から「そうだ」とあからさまにすることで、逆に人一倍努力もしたつもりだ。
書き下ろし作品『金魚鉢割れた』で、文学界では新進作家による純文学の中・短編作品から選ばれる芥木賞と並び称される大きな賞、直川賞――こちらは新進・中堅作家によるエンターテインメント作品の単行本から選ばれる――を受賞出来たのだって、その結果だと思っている。
直川賞を獲って以来メディアへの露出が増えたのは計算外の出来事だったが、玄武書院へ移った時から自分の担当になっていた茉莉奈の助言通り、嫌々ながらも取り澄ました〝不破譜和像〟を作り上げてオンオフを切り替えるようにしたのは、後で思えば僥倖だった。
作家としての〝立神信武〟と、一個人としての〝立神・リシェール・信武〟は別物だと線引きするのは信武にとってある種の鎧と盾で。
日和美の前での信武はもちろん後者だったから、彼女には自分の気持ちを演じたりせず、ストレートに表現出来ているはずだ。
ややこしくなるのが嫌で、便宜上日和美にもミドルネームはすっ飛ばして自己紹介した信武だけれど、彼女にはいずれそれも込みな自分を見て欲しいと思っている。
アメリカに住んでいた頃の友人は皆、信武のことをリシェールと呼ぶし、日和美にはあちらの友人も紹介したいから、立神・リシェール・信武として生きている自分のことも、ゆくゆくは受け入れて欲しい。
***
「おはようございます」
「おはようございます。本日は立神信武のためにこのような場を設けて頂き、本当にありがとうございます。――どうぞよろしくお願いします」
正午に現場入りしたのだから、厳密にはおはようではないのかも知れないが、こういうときのあいさつは何故か〝おはよう〟と相場が決まっているものだ。
『三つ葉書店学園町店』バックヤード。
担当編集者の茉莉奈とともに、売り場ではなく普段は従業員らしか入ることが出来ない休憩室らしき場所へ通された信武は、正直気もそぞろ。
自分のすぐ横。
パンツスーツにきっちり身を包んで、長い黒髪をギュッと後ろで一つに束ねた戦闘態勢の茉莉奈が、相手方店長や担当者らとペコペコと頭を下げながらやり取りをしているのに合わせて適当に笑顔を振りまいたり会釈をしたり相槌を打ったりしながらも、意識はすっかり上の空だった。
実はここへ着くなりずっと……。
この三週間ちょい、電話連絡やメールのやり取りぐらいで全く会えていない日和美の姿を探しているのだけれど――。
書店側とのやり取りの合間合間に、こちらからは壁に隔てられていてい全く見えない店内の様子を気にする素振りを見せていたら、「サイン会会場の様子が気になりますか?」と多賀谷からソワソワと声を掛けられた。
(いや、正直そっちはどぉーでもいーんだけど)
などと内心では思いつつ、信武はふわりとした営業用スマイルを浮かべる。
「ええ……。――あっ、もちろん! 多賀谷さんのお仕事ぶりは信頼しているんですけど……やっぱり僕自身が作業をこなす場所ですし、少しどんな感じかな?と気になってしまいまして」
本当はそんなのバックヤードから出たいだけの口実に決まっている。