裏側にいないとなれば、きっと日和美は売り場にいるはずだから。
(今日あいつ、仕事が休みっちゅー話は聞いてねぇしな)
そこまで考えてから(いや、本当に休みじゃねぇって確認したわけじゃなかったな)と気が付いた信武だ。
とは言えさすがに今日、勤め先へ自分が来ることは日和美だって知っているはずだ。
信武へ何の連絡もなく、まさか不在なんてことはないはずだと信じたい。
「――でしたら少し様子を見にいらっしゃいますか? 私、ご案内しますよ」
多賀谷に問い掛けられた信武は、考え事をしていたせいで一瞬反応が遅れてしまった。
ばかりか――。
「立神先生?」
再度声を掛けられて「あン?」と思わず素が出てしまって、即座に多賀谷から見えない角度。
企業戦士モードの茉莉奈から、思いっきりわき腹に肘鉄を食らわされてしまう。
思わず声を上げそうになった信武をキッと睨みつけて黙らせると、
「申し訳ありません。実は立神先生、このところ締め切りに追われて寝不足が続いていましたものですから寝ぼけていらしたみたいです」
身内の体でこういう仕事関連の相手には基本呼び捨てで自分のことを呼ぶ茉莉奈が、あえて〝先生〟を付けたのはきっと、信武が売れっ子作家だと印象付けるために違いない。
信武の失態を、即座にフォローしてくる辺りさすが年の功!と思った信武だ。
まぁそんなことを言おうものなら後で八つ裂きにされかねないので黙っておいたのだが。
「会場の方は下手に立神が顔を出してしまうと、もうファンの方も並んでいらっしゃるでしょうし、よろしくない気がいたします。三つ葉書店様を信頼しておりますので。ね? 先生?」
やんわりと店内に顔を出すのはNGだと釘を刺された信武は、心の中で小さく吐息を落としてうなずいた。
サイン会まではまだ一時間近くあるけれど、最終的な打ち合わせだってある。
信武は心の中で盛大な溜め息を落とすと、皆に促されるまま席に着いた。
信武は知らないけれど、いま彼が座った椅子は、日和美がよく休憩の時に弁当を食べるために使っているものだった。
***
サイン会自体は順調に進んで――。
だけど信武がいる位置から見える範囲には日和美らしき姿は見えなくて。
正直ずっと落ち着かなかった信武だ。
真後ろにニコニコと笑顔を浮かべて控えている――睨みをきかせている?――茉莉奈がいなかったなら、実際はもっとグダグダだったかも知れない。
今回サイン会に参加できる権利を得たのは、新刊『誘いかける蜜口』購入者の中から、抽選に当たった者だけと言う話だったはずなのだが、それでも立神信武は人気作家だ。
結構な人数の読者を当選させたのだろう。
サイン会の列はかなり長めで、店員らの誘導によって買い物客らの迷惑にならないようクネクネと通路を曲がりくねるように整備されていたから。
列の後ろの方は死角になっていて信武からは全く見えなかった。
サイン会にあてがわれた時間は一応一時間。
当初は二時間の予定だったところを、信武の執筆活動に影響が出るからと、『玄武書院』側が直前になって待ったをかけたらしい。
実は元々二時間でOKを出していたそうなのだが、信武が突然(記憶喪失で)行方をくらませた影響がその辺りにも出てしまったのだ、反省しなさい、と茉莉奈にお小言を言われた。
実際、ひとつ雑誌の掲載を休載せざるを得なかった信武としては、何も文句なんて言えなくて。
二時間想定で集めたファンを、一時間でさばくのは相当困難かも知れないけれど、死ぬ気でやるしかないと覚悟した。
***
サイン会は、一人大体四〇秒以内。
サインを入れてもらうため、信武の新刊『誘いかける蜜口』を差し出してくるファンと、二言三言交わして、相手からの希望があれば「○○さんへ」などと宛名を書き添えてから、その横へ目を閉じていても書けるほどに手癖の付いたサインを入れて、「有難うございました」で終わる感じ。
中には本と一緒にプレゼントを手渡してくれるファンもいるが、受け取った品物は信武がサインを書き終えて「有難うございました」を言って、次のファンと入れ替わるタイミングで、茉莉奈がサッと横合いから手を伸ばしてきて後ろへ用意した箱の中へ仕舞うという流れ作業。
ある程度箱が一杯になったら、書店側が新しい箱を持ってきてくれてそちらへ詰め始めると言った様相だ。
ずっと信武のそばに背後霊みたいにくっついている茉莉奈と違って、書店側の担当はサイン会参加者や、店舗自体への来店者の客足らいなどでちょいちょい信武のそばを離れて動き回っている。
だが、ハッキリ言って当の信武にはそんなことを気にしているゆとりなんて皆無だった。
三つ葉書店の話では、今日サイン会抽選に選ばれた人数はきっちり百人。
当初の予定通り二時間あればまぁまぁゆとりを持ってこなせる人数だったのだが、玄武書院の都合――というより信武のグダグダのせい――で勝手に半分の時間に縮めてしまったため、どう考えても一時間以内でこなすのは無理に思えた。
だが、サイン会開始直前に、「計算上では一人につき三十六秒でちょうど一時間よ」と茉莉奈に言われ――。
結果的にそれは〝そうしろ〟と言うことだよな、と言外に込められた圧を感じ取った信武だ。
信武は机の上に置いた腕時計の秒針をチラチラ気にしながら、一人なるべく三十秒以内を目処にサインをこなした。
一見単純なことに思えるこの時間管理というプレッシャーが、正直かなり神経をすり減らす作業だったから。
せっかく会いにきてくれたファンに、もっと丁寧なサービスを心掛けたいという思いとは裏腹、時間がそれを許さないもどかしさに、心がささくれ立つ。
だがその甲斐あって、ほぼ一時間で最後の一人というところまでこなすことができた信武だ。
時計を見ると、二分くらいゆとりがあって。
これでラストだと思うと、最後尾だし、長く待たせちまったよなという思いも手伝って、つい丁寧に対応しようかななんて思ってしまった。
ラスト十人ぐらいは正直気持ち的に限界で、うまく日和美いうところの〝不破 譜和さんスマイル〟で対応出来ていたか自信がない。
サイン会開始すぐの頃は、結構ファンの顔を見て話をしていた信武だったけれど、気がつけば手元と時計ばかりを気にしていて。「有難うございました」とサイン本を手渡すときにだけチラリとファンと目を合わせる感じになってしまっていた。
(あー、ホント俺、何やってんだよ)
最後の最後になって、そんなことを反省すると言うのはどうかと思ったが、しないよりはマシだろう。
グッと気持ちを引き締めてペンを握り直したと同時。
「あの、――信武さん、これ、お願いします」
聞き慣れた声に、ハッと顔を上げた信武は、目の前に私服姿の日和美が立っているのを認めて、思わずペンを握ったまま立ち上がっていた。
すぐさま異変に気付いた茉莉奈に、肩へ手を載せられてグッと押さえつけるようにして座らされた信武だったけれど、愛しい女性を前に心臓がバクバクするのまでは抑えられない。
そして、不測の事態に慌てたのは何も信武だけではなかったらしい。
「しの、……先生、お座り!……――ください。ファンの方が驚いておられます」
急に立ち上がった信武に、茉莉奈が何とか体裁を取り繕ったようにそう小声で諌めてきたのだが、信武にはそれが「信武、お座り!」と言うセリフにしか聞こえなかった。
肩に載せられた手指にギリリと込めらた力がそれを裏付けているように思えて仕方がない。
と――。
「あ、……えっ、うそ……、っ」
突然距離を詰めてきた茉莉奈に圧倒されたように信武の目の前。日和美がヒュッと息を詰めて口ごもったから。
信武はハッとして日和美の方を見た。
だが、案の定日和美は信武の方を見てはいなくて。
大きく見開かれた目がじっと見つめる先にいたのは茉莉奈だったから――。
信武はその顔を見て(しまった!)と思った。
「え? ……な、んで……? ねぇ、信武さん。これ、……どういうこと、……なの?」
逼迫した空気の中、日和美の困惑した声だけがやけに大きく聞こえた――。
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