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夜。
虫の声が響く中、こはるは薄い布団の中で目を閉じきれずにいた。
兄が帰ってきた嬉しさと、どこか胸にひっかかる不安が心をざわつかせていた。
兄・拓也の手は、以前よりずっとごつごつしていた。笑ってはいたけれど、目の奥は…ほんの少しだけ、寂しそうだった。
こはるは眠れないまま、そっと起き上がる。
台所の方で母が夜の支度をしている気配を感じる。
「お水…飲もうかな」
縁側を通って部屋を横切ったとき、兄の作業着がきれいに畳まれているのが見えた。
その上に、薄茶色の封筒がひとつ、無造作に置かれていた。
——『広島陸軍地方司令部』と、筆で書かれた文字。
こはるの胸が、どくんと跳ねる。
指先が勝手に伸び、封筒をそっと手に取る。薄く中が透けていた。
紙を一枚、抜き出す。
「佐々木拓也 殿
貴殿におかれては本軍の志願兵選抜に適すと認め、…」
読み進めるほどに、こはるの手が震えていく。
志願兵。召集。内定通知。
それは兄が、次に兵隊として戦地へ送られるという、現実だった。
「……うそ……」
息を飲んだ瞬間、背後から声がした。
「こはる、それ——見たのか」
振り返ると、拓也が部屋の入り口に立っていた。
部屋の灯は消えていて、兄の表情は闇の中に隠れていた。
こはるは手紙をぎゅっと握ったまま、何も言えず立ち尽くした。
「…母さんにも、健太にもまだ言ってない。来週、正式な手紙が届くから、それまで…」
拓也は、ゆっくりとこはるの前まで歩いてきた。そして、妹の頭に手を置いた。
「ごめんな。俺、家族守るためだって、思ってる。でも…やっぱり怖いよ、正直なところ」
その言葉に、こはるの目から大粒の涙が溢れた。
「…お兄ちゃん、いかないでよ……!もう、これ以上……誰も、いなくならないでよ……!」
抱きしめたこはるの身体が、小さく震えていた。
拓也は何も言わず、ただその頭を優しく抱きしめ返した。
——その夜、こはるは兄の布団にもぐり込み、眠るまで手を離さなかった。
戦争は遠くの出来事じゃない。
家のすぐそばにまで、静かに、確実に忍び寄っていた。