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──バシャン!
破裂音のような水音が
湯気に満ちた浴室に響いた。
「──わぷっ!」
思わず咳き込むように声を洩らしたのは
時也だった。
鼻先から額まで濡れた髪が貼りつき
湯の雫が頬を伝って滴り落ちる。
向かい合っていたアラインは──
自分の掌が、まだ湯面の上にあるのを見て
呆然とした。
(⋯⋯あれ?ボク、今──)
無意識だった。
ほんの、遊び心だったのかもしれない。
それとも
あまりに安心してしまって
いつもなら絶対に見せない
〝子供じみた衝動〟が溢れたのか⋯⋯
──違う。
多分、癪だったのだ。
(⋯⋯やっちゃった)
流石に怒るかもしれない──そう思った。
自分だったら間違いなく
眉を顰めて怒っている。
ふざけられるのが嫌いだったから。
だからこそ、次の瞬間
時也が顔を拭いながら
ニコリと笑った時──
アラインの胸に走ったものは
〝驚き〟だった。
「やりましたね?」
その声は、笑っていた。
頬を緩め、瞳が楽しそうに細められていた。
そして、次の瞬間──
「え──」
ぴしゅっ!
音も軽やかに
水がアラインの頬に命中した。
ほんの少し鋭く、額にまで跳ねる水の筋。
「な、なにそれ!今のどうやったの!?」
掌で当たった水を拭いながら
アラインが詰め寄る。
額からも雫が垂れて
髪の先から
ぽたぽたと浴槽の水面へ落ちていた。
「ふふ!
昔、青龍に教わったんです。
手をちょっとこうして──こう!」
時也は、水を掌に掬い
指を器用に組みながら
軽く力を込めて飛ばして見せた。
また、水しぶきが空を切り
アラインの肩に軽く当たる。
「うそ⋯⋯すご⋯⋯!
それ、絶対勝てないじゃん!」
アラインはむくれたように唇を尖らせ
頬をぷくりと膨らませる。
「む⋯⋯負けないんだから⋯⋯!」
そう呟いて、両手を広げ
慎重に湯を掬う。
けれど──
勢いが足りず、お湯は零れ
指の間からぽたぽたと落ちていくばかり。
狙いも定まらず
時也に届く前に、儚く溶けて消えた。
笑ってしまいそうだった。
悔しさと情けなさが入り混じる表情のまま
それでも口角がつい緩む。
「ぷっ⋯⋯なにやってるんだ、ボク⋯⋯」
湯気の向こう
時也が顔を覆うようにして笑っていた。
「ははっ!」
まるで少年のようだった。
いつもの微笑とは違う
声を上げて笑う時也。
頬がほんのり紅潮し
黒褐色の髪が額に貼りつき
水滴が頬を滑っている。
その笑顔を見て、アラインは──
不思議な気持ちになった。
(⋯⋯コイツも、こんな顔して笑うんだ)
静かな天使。
決して乱れず
いつもどこか遠く
穏やかで──
時に冷たく
時に残酷なほど
潔癖な存在。
その彼が
今はただの〝青年〟の顔で
湯船の中で少年のように笑っている。
それを見ていたら
胸の奥がまた、くすぐったくなった。
どこか、悔しくて、でも──
何故か、嬉しかった。
「⋯⋯もっかい!」
アラインはもう一度、掌で掬い上げる。
さっきより少し深く、少し勢いを意識して。
(こんな風に、誰かと笑い合うなんて──)
そう思いながら。
(⋯⋯初めてだ)
でも、口には出さない。
今はまだ
そんなのを言葉にするには
早過ぎる気がした。
だから、ただもう一度──
お湯を掬い、時也に向けて放つ。
「今度こそ、くらえっ!」
⸻
「⋯⋯何してんだ、お前ら?」
ガラリ。
鈍く響いた扉の音と共に
湯気の奥に浮かび上がったのは
ソーレンだった。
薄手のシャツの前は無造作に開けられ
寝癖気味のダークブラウンの髪が
額に落ちている。
片手には
まだ開けたばかりの冷えたペットボトル。
眠たげに細められた琥珀の瞳が
浴室の光に濡れて輝く。
「おや、ソーレンさん」
湯の中
くしゃくしゃの髪を濡らしながら
時也が笑顔で迎える。
肩まで浸かるその裸身は白磁のようで
湯気に霞んでもなお清廉さを纏っていた。
「便所に起きたら、声がするから
何だと思って来てみりゃ⋯⋯」
ソーレンがまるで
ため息でも吐きたげに言いかけたその時──
「そりゃっ!」
アラインが立ち上がるようにして
両手を大きく広げ
浴槽の湯を掬い上げてソーレンに放った。
水面から舞い上がった湯が
空気を裂いて一直線に飛ぶ。
だが──
ぴたり、と止まった。
まるで見えない壁にぶつかったかのように
湯は空中で球状に固まり
ぽよんぽよんと振動しながら
宙に浮かんでいる。
「⋯⋯ほぉ?」
ソーレンの口元がゆるく吊り上がる。
その眠気を孕んだ瞳が
明らかに〝覚醒〟していた。
「俺に仕掛けるたぁ
良い度胸してやがんなぁ?アライン⋯⋯」
低く響いた声には
明らかに〝遊び〟の色が混ざっている。
アラインが何か返そうと口を開く前に──
ソーレンの指が、ひとつ、軽く振られた。
その瞬間、浴槽全体の水がごうんと蠢き
まるで生き物のように一塊に浮かび上がる。
その質量に
アラインと時也が同時に目を見開いた。
「───わっ」
水の塊が一拍の間を置いて、二人の上へ。
ばしゃぁんっっ!!
滝のような轟音と共に
頭のてっぺんから一気に湯が降り注いだ。
天井から降るかのようなその水流に
アラインの黒髪はぐしゃぐしゃに
時也の整った前髪もぺたりと額に貼りつく。
「ソ、ソーレンさん!」
時也が湯を払いながらも困ったように笑う。
「っははは!
重力操作は反則でしょ
バッカじゃないの!」
アラインは
湯まみれになった顔を覆いながらも
どこか楽しそうに叫んだ。
水がぽたぽたと顔を伝い
顎から湯面に落ちていく。
「⋯⋯もう、滝行みたいですね⋯⋯」
ずぶ濡れの髪をかき上げながら
時也が苦笑する。
その裸の肩先から
水滴が静かに滑り落ちる。
「はっは!いい気味だな。
おとなしく寝てりゃいいもんを」
ソーレンは、ボトルの水を口に含みながら
笑いを堪えきれないといった顔で
唇をぬぐった。
浴室の入口に凭れながら
まるで風呂上がりの
気怠げな兄貴分のように立っている。
すっかり目も覚めたらしく
琥珀の瞳に浮かぶのは
完全に〝参加する気満々〟の光だった。
浴室に響く笑い声と水音。
温もりを含んだ湯気の中で
三人の時間が
濡れながらゆっくりと流れていく。
──そんな夜が、確かにあった。
何の利害もない、ただ笑い合うだけの夜が。